GE、ウォルマートを世界一に育て上げた2人の経営者の共通点

マネジメントの基本や戦略を分かりやすく解説してくれるメルマガ『戦略経営の「よもやま話」』。今回は、アメリカを代表する企業である「GE」と「ウォルマート」を題材に、世界を舞台に戦うための「組織の作り方」を学んでいきましょう。

アメリカの2大経営者の共通点
大成した日本の経営者とアメリカの経営者では、経営の基本は同じでも、そのスタイルは少し違うようですが、とことわってご案内します。

「ジャック・ウェルチ」は、「GE(ジェネラル・エレクトリック社)」を無敗の超優良企業に育て上げた経営者です。「サム・ウォルトン」は、田舎のバラエティー・ショップから始めて、世界一の小売業「ウォルマート」を創り上げた創業者です。

ところで、2人の経営者にいえるのはとにかくタフだということです。そして、団体ゲームもふくめ大変なゲーム好きだということです。と言いながら、2人がスター選手になったかというとそうではなくて、二人とも体格的には恵まれておらず、それなりにレギュラー選手になるものの、そこ止まりでした。

しかし、とにかくチームで行うゲームが大好きで、勝つことに執念を燃やし、大いに青春時代を楽しんだようです。

ここから伺える名経営者の素養は、団体ゲームが好きなこと、勝つことに執念を燃やすことです。それも、1番を目指すことです。日本の名経営者のなかにも、結構スポーツ好きがいるようです。

企業経営と団体ゲーム
企業経営もある意味では団体ゲームです。

二人にとって企業経営は何かというと、どうもスポーツゲーム以上に自身の「生きざま」のすべてかけたゲームであったようにも思えます。

団体ゲームで勝つためには3つの条件があります。

1.チーム・メンバーとどのように調和してゲームを進めるか
2.勝つために実力をどのように育てていくか
3.どのような作戦展開を行うか

この3つのマネジメントが大切です。

少し横道にそれますが、「人のやる気」についてある学説を紹介します。その学説は「ハーズバーグの動機付け衛生理論」です。職務満足と職務不満足を引き起こす要因は違うという理論です。

職務「不満足」を引き起こす要因は、「会社の政策と管理方式」「監督」「給与」「対人関係」「作業条件」などで、これらが満たされないと人は企業を辞めます

これに対して職務「満足」を引き起こす要因は、「達成すること」「承認されること」「仕事そのもの」「責任」「昇進」などです。主に仕事そのものにかかわることがらです。

これこそが、人から活力ある貢献を引き出す要件になります。ゲームに勝つことに通じます。

「ジャック・ウェルチ」の団体チーム作り

脱線ですが、「ジャック・ウェルチ」と「報酬」についてお話しします。

ジャック・ウェルチが報酬にあまり関心がないかというとそういうことはありません。GEに入社してあまり経たないころ、報酬が不満で上司にその旨を伝え、言い分が聞き入れなければ別企業に移ろうかとしたことがあります。その時は、条件が認められGEに留まったという出来事もあります。

プロスポーツにおいては、活躍と報酬は一体化しています。それと同じようにジャック・ウェルチは、事業の成功において幹部の報酬について一人で決済しました。お祝いの手書きのメッセージとともに報酬額を明示しました。

話を戻しますが、チームのための「人材育成」と「想いの共有化」と「情報の共有化」は「強みづくり」の根幹です。

カルロス・ゴーン以上のコストカッターであるジャック・ウェルチが、社内の反対を押し切って実施した事業に、世界初の企業内ビジネススクール「クロトンビル」開設があります。

クロトンビルでは、ジャック・ウェルチが幹部は当然として現場の従業員に至るまで、企業の理念や方針を周知徹底させました。その中には「あなたの雇用を保証するのは顧客だけです。企業ができるのはそれを支援するだけです」といったメッセージもありますが。

もちろんここでは幹部会議が頻繁に行われました。トップからは辛辣で率直な攻撃が行われ、それに対して的確に応えられなければ幹部失格です。的確に率直に反論できる幹部が、ジャック・ウェルチのお気に入りのようでした。

「サム・ウォルトン」の団体チーム作り

また、脱線して「サム・ウォルトン」とお金の話をします。

世界一の大金持ちと「フォーブス」誌で紹介されたこともあります。しかし、大金持ちにしては生活はいたって質素でした。楽しみは「うずら狩り」と「テニス」で大型クルーズで遊ぶこともありません。一番の楽しみが「ウォル・マート」を通して一番になることだったのでしょう。

投資についても「超堅実」です。しかし、だれもが手を付けていなかった「POSシステム」と「物流システム」に投資し、競争上の強さの獲得に成功しました。

サム・ウォルトンはこれはと目を付けた人材に対しては徹底して引き抜きを行います。強いチーム作りのため、「人材強化」については貪欲でした。

しかし、採用した採用した優秀な人材の活用については一癖ありました。「POSシステム」「物流システム導入」の予算提示については、すんなり応じることはありませんでした。徹底的に見直しをさせて、納得できる予算になった時にゴーサインを出しました。

ウォル・マートでは、土曜日の早朝から行われる幹部と店長全員と一部の選抜店員が加わるミーティングが特徴的です。テーマは前もって決められておらず、お祭り騒ぎで終わることもあり、何が出てくるか分からないぶっつけ本番の会議です。

全員が参加して思いを同じくし、新鮮な活力をもたらす会議です。

日本では、イトーヨーカ堂やセブン‐イレブン「業革会議」として行われており、ユニクロのファーストリテイリングでも、月曜朝に「営業会議」として同じような会議が開催されています。

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世界一の経営者スティーブジョブズのクズすぎるエピソードまとめ

世界一有能で、世界一クズな経営者」と評されているアップル創業者、故スティーブ・ジョブズ。

コンピューター、携帯電話(スマホ)、音楽、アニメ映画と4つの産業で革命を起こし、まさに「世界を変えた男」と呼ぶにふさわしい偉人です。

彼が創り上げたアップル社は今や時価総額で世界一となり、その巨大さを分かりやすく言うと、「ロシアの上場企業全てを足してもアップル一社に敵わない」ほど。もはや会社ではなく”国家”とさえ呼べそうなレベルです。

死してより伝説と化しているジョブズ。

その偉大かつ天才的な功績は誰もが知るところですが、その反面で彼がいかに最低な独裁者で、”人格破綻者”であったかは、ジョブズファン以外にはあまり知られていません。

ジョブズの素晴らしい偉業エピソードの方はもうお腹いっぱいで間に合ってますよということで、 今回は彼の負の側面、『人としてクズすぎるエピソード』をまとめて紹介したいと思います。

(「クズすぎる」なんて煽ってますが、とくに批判したい意味はないので誤解のないように)

 

クズすぎるエピソード集

 

■普通にドラッグやってた

大学時代はマリファナやLSDを毎日ヤッてラリっていたことを自伝で明かしています。

ジョブズ特有の直感的なビジョンや創造性を発揮する瞬間は、ラリっているときの感覚に近いのだとか。

本人も「LSDの摂取は、人生で行ったことの中で最も重要な経験のひとつだ。私はドラッグなしでは成功できなかっただろう」という言葉を残しています。

 

■発明した長距離電話を不正にタダでかけまくる

Apple創業前の青年期、ジョブズの相棒でありAppleの共同設立者であるスティーブ・ウォズニアックと一緒に長距離電話をタダでかけられる装置を開発。これを使ってタダでイタズラ電話をかけまくっていました。

しかもそれだけに終わらず、遊び終わった後は装置を友達に売りさばいて大儲け。しかし、終いには銃で脅されるまで危険な目にあい、販売はやめました。

冗談の通じるアメリカだから良かったものの(悪ふざけだろうと、その想像力が評価されたりする)、日本だったら普通に捕まってアウトですね。

 

■妊娠させた彼女と裁判になり、子供を認知せず捨てる

ジョブズは高校の時から半分交際関係にあったクリスアン・ブレナンという彼女を妊娠させた経験があります。

それはApple社がとうとう株式公開をするかって時期だったのですが、スキャンダルを避けるためか、ジョブズはお腹の子供が自分の子だと頑として認めませんでした。

子供は認知しないし、金銭も一切払おうとしないジョブズに対してクリスアンは裁判を起こすのですが、その法廷に立ったジョブズはなんと、クリスアンが”誰とでも寝る”売女だと証言し、子供が他人の子である妥当性を証明しようとしました。

その後クリスアンは一人で娘のリサを産み……その後9年が経ってから、ようやくジョブズはリサを認知するに至っています。

 

■報酬は独り占め

創業期のジョブズは、スティーブ・ウォズニアック(実質的にアップル製品の生みの親と言える天才エンジニア)に自らの仕事を押しつけた挙句、受け取った報酬のほぼすべてを自分のモノにしていました(ウォズニアックには内緒で)。

また、アップルが株式公開を果たした際には、古くから一緒に会社を育ててきた創業メンバーの多くにストックオプションとして1株も渡さなかったことも鬼畜すぎます。

そのせいで”なれたはずの”億万長者になれなかった社員もいます。

 

■人間には「天才」か「クソ野郎」しかいないと見なす。

要求する水準を満たさない人間に対しては、放送禁止用語だらけの罵詈雑言を浴びせることで有名。

ジョブズの目には、天才かクソ野郎の2種類にしか人間が映らないようです。

天才になれない人間は徹底的に、ノイローゼに陥るまでに罵倒され、何人もの社員が退職に追い込まれました。

同じように、仕事に対しても「最高の仕事」か「下らないガラクタ仕事」しかないようです。

 

■コミュ障は即クビ

社員食堂でジョブズに話しかけられた際に、恐怖のせいでシドロモドロになってしまった社員に対して、 「おまえは自分がどんな仕事をしているのか説明もできないのか? そんな人間と同じ空気を吸いたくないな」 と罵り、クビにします。

 

■とにかくクビ! クビクビクビ!!

上記以外にも、ジョブズはほんの少し気に食わないと感じただけで感情的に社員をクビにします。いくつか例を挙げてみると。

  • エレベーターに乗り合わせた社員に「キミはこの会社のためにどんなことをしてる?」と聞き、はっきり答えられない社員に怒りだして、エレベーターの中でその社員をクビにした。
  • 秘書がいつもと違うブランドのミネラルウォーターを持ってきたのでクビにした
  • NeXT時代にIBMと決定的に重要な契約があった時、「10ページ以上の長い契約書にはサインしない」という馬鹿げた理由で契約を反故にしてしまった
  • 社員のiPhoneを前触れなく取り上げて、そのiPhoneがパスワードで保護されていなかったらクビにした

気まぐれ暴君による恐怖政治です。働いている社員たちは生きた心地がしないでしょう。

ジョブズと目を合わせないことが最も重要な仕事の1つだという言葉もあります。

 

■できたてのiPod試作機を水槽へぶち込む

有名なエピソードですが、徹底的に小型化が命じられていたiPodの開発時、地獄のような開発期間の末にようやく完成した試作機をジョブズに見せにいったところ、ジョブズはその試作機を水槽の中にぶち込んだのです。

ぷくぷくぷくと試作機から気泡が出るのを指してこう言い放ちました。「この酸素の分、もっと薄くしろ」と。

完成間近だったiPodが、ジョブズの一言によって土壇場でひっくり返されました。

 

■意見をコロコロ変える

「iMac」というネーミングをつける時、「iMac」か「マックマン」の2候補がありました。

常々ジョブズは「ゲームや携帯型音楽プレーヤーを連想する名前はダメ」と言っていたため、広告担当の社員たちは「iMac」のネーミングを推していたのですが、ジョブズは「マックマン」の方を直感的に気に入ってしまい、全く聞く耳を持たなかったそう。

あらゆる角度から「iMacにすべきだ」と説得するものの頑として意見を曲げないジョブズに諦めかけていたのですが、次の週の会議でもう一度「やっぱりiMacでは……?」と再提案してみると、ジョブズは「iMac」の文字を見つめながらこう言ったそうです。

「よし、今週はそんなに嫌いじゃない」

……えぇ。

 

■人のアイディアは平気でパクる

人のアイディアを平気で自分のもののようにパクることでも有名です。しかも、一週間前にボロクソに罵倒しまくった社員のアイディアを、翌週のプレゼンでさも自分が考えたかのように話しだすのがジョブズ流。

実はiPodを発案したのもアップル社員の一人だったのですが、その”彼”も元々はジョブズに罵倒され続け、一時期は辞める寸前まで追い込まれたそう。

彼がそこで辞めていたら、iPodは生まれていなかったかもしれません。

 

■「週90時間働け!」Tシャツ

ジョブズは「週90時間働け」と文字を入れたTシャツを作り、社員たちに着させていました。

 

■面接ではセクハラしまくり

社員面接のときには、堂々と「ねぇ、キミは何歳で初セ◯◯スしたの?」などとセクハラ質問を連発するジョブズ。

ドン引きする志望者に対してさらに追い打ちをかけるように、「え、キミまさか童貞? え、キミまさか童貞なの?(爆笑)」と煽りまくり、もう本当に人としてどうなんでしょう(笑)。

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ジョージ・イーストマン[コダック社創業者]ポータブルカメラで世界を変えた発明者

ジョージ・イーストマン(1854~1932)は写真の大衆化を果たしたアメリカの産業資本家だ。イーストマンが参入する以前、写真撮影は一部の専門家だけに許された狭い世界にとどまっていた。扱いのやっかいな機材を理解し使いこなせて初めて、やっとささやかな写真が撮れる、というしろものだったからだ。イーストマンはこのような写真撮影のプロセスを簡略化し、誰にでも楽しめるものにした。

 イーストマンは、革新的な技術の開発に携わる一方、自分の会社イーストマン・コダック社では進歩的な経営にもすぐれた力を発揮している。それは当時としては、はるかに時代の先を行く経営だった。彼の指導のもと、その写真王国は、アシスタントが1人だけという設立当初の規模から、1万3000人の従業員をかかえるまでに成長した。オフィスの規模でいえば、発足当初の小部屋1つから、現在はニューヨーク州ロチェスターで約22万平方メートルの敷地に展開する、95棟のコダック・パーク・ワークスにまで拡大している。

成功への階段

イーストマンは3人きょうだいの末っ子としてウォータービルで生まれた。ニューヨーク州北部ウティカの南西約30キロにある村だ。5歳のとき、家族がロチェスターに引っ越した。父親が初めて商業学校の構想を考え出し、ロチェスターにイーストマン商業学校を設立したためだ。不幸にも、父の急死で学校は頓挫、イーストマン一家は苦しい生活を余儀なくされた。

14歳で学校を卒業すると、働いて家計を支えなければならなかった。保険会社に入社してしばらくたったころ、帰宅後に経理の勉強を始める。当時の週給5ドルを上回る仕事につけるようにしたかったからだ。1874年、保険会社に勤務し始めてから5年がたったとき、この努力が実を結び、ロチェスター貯蓄銀行でジュニアクラークの地位を手に入れた。週給は15ドル以上になった。

イーストマンの人生を変える瞬間は、24歳のときにやってきた。サント・ドミンゴでの休暇の計画を立てていると、仲間の1人が、旅行の記録を写真に撮るように勧めた。イーストマンは当時最先端だった湿板技術による大きな図体の写真機材を購入していた。カメラ本体だけで21インチのコンピュータ用モニター並みの大きさがあり、これを三脚に取り付けて撮影する。この他にもガラス板、化学薬品類、ガラス製タンク、ガラス板ホルダー、現像用の道具などが必要だった。テントも持って行った。撮影直後、湿板の乳剤が乾燥しないうちに現像しなければならかったからだ。

結局、サント・ドミンゴまで撮影機材を持って行きはしなかったものの、しだいに写真が頭から離れなくなり、乾板のプロセス技術の完成に没頭するようになる。乾板とは、表面を特殊なゼラチンの乳剤で覆った薄い板のことだ。ゼラチンの乳剤は、撮影後すぐに現像する必要のある湿板とは違い、乾いた状態でも感光する性能を持っていたため、いつでも好きなときに撮影ができた。イーストマンはイギリスの雑誌で見つけたこのアイデアに着目し、改善を加え、3年間実験を繰り返したのちの1880年、乾板そのものとその乾板を大量に生産する機械の両方の特許を取得した。そして銀行を辞め、1881年の初頭、ヘンリー・A・ストロングをパートナーに迎えることになる。

自分が開発した革新的な技術の商業化の可能性に目をつけると、イーストマンはロチェスターのステート通りにあるビルを借りて、写真家向けの乾板の製造を始めた。操業当初から陣頭指揮を取り、経営手腕を発揮した。たとえば、販売業者に送った乾板に欠陥があることが判明したとき、不良の乾板をすべて回収し、良品と交換した。「不良品の対策を終えたあと、会社には1ドルも残っていなかった」とのちに語っている。「しかし、それよりもはるかに大切なものが残った。それは世間の評判だ」。1884年にイーストマン・ドライ・プレート・アンド・フィルム社が設立された。

この一件がきっかけで、イーストマンは、自分にはプロの写真家の仕事を楽にする以上のことができると気づく。本人の言葉を借りれば、「カメラを鉛筆なみの便利な道具に生まれ変わらせたい」と思った。

転機と決断

イーストマンがスライド用のロールフィルムとそのホルダーを完成させた段階で、めんどうな平板フィルムによる撮影の時代の終わりが見えてきた。写真撮影がついにアマチュアに手の届くところまでやってきた。イーストマンは、自分の開発した新しい写真フィルムを普及させようとして、あらゆる手だてを尽くした。広告のコピーにも取り組み、あの有名な宣伝文句「シャッター押すだけ、あとはコダックまかせ」を思いつく。

コダックの名称までも考えつき、1888年に商標登録、黄色を基調にしたカラーデザインも創作した。「コダック」の語源は何かという詮索が盛んだが、実際には、イーストマンの頭に突然浮かんだだけらしい。「この名前は自分で思いついた」と、ある自伝作家に語っている。「私は力強い勢いを感じさせるKという文字が好きだ。Kで始まりKで終わる膨大な組み合わせの中から、コダック(KODAK)を選んだ」

1888年にコダックのカメラが発売され、まもなくコダックの広告が至るところで目につくようになった。ロンドンのピカデリーに掲げた最初のネオンサイン広告によって、コダック・ブランドが伝説的な存在にまで成長した。1892年、同社は社名をイーストマン・コダック社に変更する。

イーストマンは当時の経営スタイルよりもはるかに先を行く、従業員を大切にする啓発的な経営姿勢を貫くことによって、コダックを育て上げている。1899年には、自分自身の財布から相当な金額を従業員全員に配分した。イーストマンの「給料配分」の方針に基づく初めての行動だった。これは同社株の配当金に連動して従業員に報奨を与えるという制度だった。1919年には同じような趣旨で、持ち株の3分の1、時価にしておよそ1000万ドルを従業員に譲渡した。同時に退職年金、生命保険、傷害補償の制度を創設した。

ジョージ・イーストマンのこの博愛主義は、企業の枠を越えて広まった。歯の治療施設、マサチューセッツ工科大学(MIT)やロチェスター市当局をはじめ数多くの団体や組織までもが、その行為の対象になった。

中でもMITは特に優遇されている。2人の卒業生がイーストマンの有力なアシスタントになったからだ。「ミスター・スミス」の名前で2000万ドルの寄付をした謎の人物が一体誰なのか、長年にわたって調査が続けられた。年に一度のMITの同窓会のディナーで「ミスター・スミスに乾杯」となったときにも、イーストマンはその乾杯に加わっていた。

晩年、イーストマンは腰椎損傷が原因の障害に苦しんだ。活動的な生活ができない精神的苦痛が高じて、1932年3月14日に拳銃自殺を図る。享年77歳だった。

時代と業績

イーストマンは、面倒で扱いにくい科学的プロセスを、マスマーケット向けの製品に変身させた。写真技術の開発におけるイーストマンの先進的で革新的な手法のおかげで、大切な一瞬を記録するという手段が、誰でも手の届く価格で大衆のもとに届けられた。

イーストマンは「箱の中の製品は信頼できる」というマーケティング手法の生みの親でもある。彼は、テクノロジーは消費者が少し想像力を働かせるだけで使いこなせるようでなければならない、と言った。マイクロソフト社の「きょうはどこに行きたいですか?」も、「インテル入ってる」も、その下敷きになっているのはイーストマンの着想だ。すなわち、消費者は技術のことなど知らなくても製品を使えばよい、という考え方だ。

イーストマンのキャッチフレーズは、他社に先駆け、歴史におけるコンシューマリズムの転換点をしっかりととらえていた。当時の消費者は、自分が購入した製品がどういう仕組みで動くのか、程度はともかく、理解していた。けれども、19世紀の終わりころから20世紀の初めにかけて、電話、電球、フィルム撮影などといった技術的に複雑な発明が爆発的な勢いで生み出され、こうした状況を一変させてしまったのである。

先進的な経営者イーストマンは、時代のはるかに先を行く経営手法を他に先駆けて実践した。不良品に対する顧客からのクレームに直面したことによって、危機管理の重要性を深く認識した。従業員の貢献には基本給を超える報奨をもって応えることが、結局は会社の利益になることも理解していた。当時、イーストマン・コダックなみの規模の企業で、将来を見据えながら、従業員の持ち株制度やさまざまな従業員給付制度を実施していたところは、ほとんど存在していなかった。

プロフィール
1854 誕生
1874 ロチェスター貯蓄銀行で働く。週給は15ドル
1878 写真に関心を持つ
1880 乾板とその製造機の特許を取得
1881 ヘンリー・A・ストロングを協力者に迎える
1884 イーストマン・ドライ・プレート・アンド・フィルム社設立
1885 開発した革命的な写真フィルムの広告宣伝を展開
1888 コダック(KODAK)の名前を商標として登録
1899 「給料配分」方針を実施
1919 持ち株の3分の11000万ドル分を従業員に配分
1932 他界

 

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フランク・ウィンフィールド・ウルワース[ウルワース創業者]低価格路線を打ち出したチェーンストアの先駆者

フランク・ウィンフィールド・ウルワース(1852~1919)はチェーンストアの先駆者だ。貧しい境遇から身を起こし、若いときに仕事でさまざまな挫折を経験したにもかかわらず、アメリカの大富豪の仲間入りを果たした。ニューヨーク州の小さな町で生まれた農家の少年は、「ファイブ・アンド・テン」の構想を打ち出し、まずはアメリカ、そしてついには全世界に展開した。

1879年には1軒だったウルワースの店舗は、1918年には1000店を数えた。このF・W・ウルワース社の成長はまさに驚異的で、小売業の業態に変化を起こすと同時に、その創業者に富と名声をもたらした。ウルワースこそ他に先駆けて低価格路線を打ち出した小売チェーンだ。ウルワース本人は、自分の成功の秘密はうまく権限を委譲したことだという。

成功への階段

ウルワースはニューヨーク州ロッドマンで生まれた。長男だった。1858年の後半、ウルワースが7歳のとき、一家はニューヨーク州グレートベンド近くの108エーカーの農場に引っ越した。人口わずか125人の町では、ウルワースが教育を受ける機会は限られていた。教室がただ1室の校舎に弟と一緒に通っている。実際にはほとんどの時間、勉強するよりも、乳牛8頭のめんどうを見て父の仕事を手伝っていた。

16歳のとき、短期間、商業学校に通ったあと、ある駅長が経営する売店で仕事をし、次にダン・マクニールの雑貨店で店員として働いた。両方の仕事とも無給だった。その見返りに、ダン・マクニールはウルワースをウィリアム・ムーアに推薦した。ムーアはニューヨーク州ウォータータウンにある大手乾物店オーグズベリー&ムーアのオーナーだった。1873年、ムーアはウルワースを雇うことに同意した。

オーグズベリー&ムーアでは、出世コースの一番下の階段から出発した。床を掃除し、ウインドーのディスプレイを考え、商品を配達し、言われればどんな仕事もこなした。

勤務時間は長く、朝7時から夜9時まで週に6日働いている。オーナーは当初、ウルワースに1年間無給で働くように要求したが交渉し、無給の期間は3ヵ月、その次の3ヵ月の給与を3ドル50セントにすることで折り合いをつけた。

それから2年後、ウルワースはブッシュノール百貨店に移って販売員となる。1876年、カナダ人のジェニー・クライトンと結婚し、4エーカーの農場を手に入れた。

運の悪いことに、厳しい環境と仕事で何の助けも受けられなかったことが原因で、ウルワースは発熱とストレス性の疾患に苦しめられた。ブッシュノールの仕事を辞め、仕事から離れて1年間自宅療養をせざるを得なかった。病から回復すると、昔の雇い主のウィリアム・ムーアが訪ねてきて、社名を新しくしたムーア&スミス社での復職を勧めてくれた。ウルワースは週給10ドルで仕事をすることに決めた。

転機と決断

1878年、ウルワースに娘が生まれ、母が亡くなった。この年は小売業の世界が激変した年でもあった。中西部の小売店に「5セントテーブル」という新しい戦術が現れたのだ。過剰に抱え込んでしまった商品を小売店がわずか5セントにまで値下げし、それをテーブルに並べたものだ。顧客はこの安値につられて来店し、ついでに正価の商品もつい買ってしまう。

ムーアはニューヨーク市に出張し、5セントで売れる商品を100ドル分仕入れてきた。それをムーア&スミスの店で販売する。ウルワースは店のカウンターを工夫し、仕入れてきた商品を1日で売り切ってしまった。

ムーアから供給される品物を仕入れ、ウルワースはニューヨーク州ウティカに自分の店「グレート・ファイブセントストア」を開いた。この店は321ドル相当の5セント商品を用意して、1879年2月のある土曜日の夕方に開店している。初めて売れた商品は「石炭シャベル」だった。

ところが、この店は失敗で、すぐに閉店に追い込まれる。これにくじけることなく、ウルワースはもう1軒の店を、同じ年の6月、ペンシルベニア州ランカスターに開店させた。今度は、5セントと10セントの商品を販売した。

このランカスターの店舗は成功だった。1880年11月、2番目の店をペンシルベニア州スクラントンにつくる。この店も成功し、ウルワースはひたすら前進を続けた。

ウルワースはその帝国の拡大を図るために家族を動員した。1895年には、店舗数が28になっており、そのなかには以前のボス、ウィリアム・ムーアの店もあった。売上高は100万ドルを突破していた。驚異的なスピードで成長を続け、1900年には店舗数が35、1908年は189、そして1911年には600になっていた。1918年1月、1000軒目の店舗がニューヨーク市の五番街に誕生した。

ウルワースが1人で始めた事業はグローバルな企業へと急速に成長していた。

1905年、事業化の負担を1人で負いきれなくなり、F・W・ウルワース社を設立し、エグゼクティブと従業員に対して5万株を発行した。

会社のオフィスは当初、スチュワートビルの中でニューヨーク市のシティホールパークを見下ろす位置にあった。そして1913年4月には、当時最も高い摩天楼、ウルワースビルに移転している。ウルワースのオフィスは24階にあった。その広さは約9メートル四方あり、そのデザインはナポレオンの有名な皇帝の執務室を基本にし、その部屋にあった時計やそのほかの品物が取り入れられていた。

1916年、F・W・ウルワース社の店舗の総来店者数は7億人を超え、売上高は8700万ドルを突破していた。人口8000人以上のアメリカの町には例外なくウルワースの店があった。

会社がウルワースビルに入居するころには、ウルワースに引退の時期が近づいてきていた。健康状態がすぐれず、ヨーロッパで静養するための休暇を取るようになる。妻のジェニーは若年性の痴呆症に苦しんでいた。ウルワース自身の健康状態は、歯の手入れをしようとしなかったことも一因となり確実に下降線をたどっていた。

1919年4月4日に重体に陥り、その4日後に息を引き取っている。

時代と業績

F・W・ウルワース社は低価格を追求する小売業のパイオニアだ。のちにウォルマートをはじめとする企業が追随する低価格路線の伝統を根づかせ、チェーンストアと大量販売を基礎に小売業の帝国を築き上げた商人の先駆けだ。

薄給あるいは無給で働き、長期間病気に苦しみ、最初の5店舗のうち3店舗は失敗したと知れば、ウルワースが事業家としての夢をあきらめたとしてもそれを非難する人は誰もいなかっただろう。

しかし彼は、こうした逆境にめげず、並外れた粘り強さによって、すべての「ファイブ・アンド・テンセント」の競争相手を寄せつけず、その時代に最も成功した小売業者となった。

低価格商品を武器にしたウルワースの事業は、1990年代まで十分通用していた。ところが1997年、ウルワース社は最後まで残ったF・W・ウルワースの「ファイブ・アンド・テンセント」店400軒をすべて閉鎖すると発表、117年間にわたってウルワースの看板だった低価格の雑貨店事業から、ついに撤退することになった。

ウルワースの秘密は何だったのか。それは権限委譲に尽きる。

「自分があらゆることに口を出さなければならないという考えに凝り固まっている限り、規模の大きな成功は不可能だ。仕事を任せられる腹心や仲間を指名して、彼らに権限と責任を与えることだ」

プロフィール
1852 誕生
1858 一家がニューヨーク州グレートベンド近くの108エーカーの農場に引っ越す
1873 オーグズベリー&ムーアの店で働く
1878 5セントのテーブルがアメリカの小売業界で評判になる
1879 ニューヨーク州ウティカにウルワースの第1号店ができる
1895 店舗数が28になり、売上高が100万ドルを突破する
1905 F・W・ウルワース社設立
1913 同社がニューヨーク市にある当時最高の高さを誇る摩天楼に移転
1918 1月、ニューヨーク市の五番街に1000番目の店舗を開店
1919 他界

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キング・キャンプ・ジレット[ジレット社創業者]安全カミソリで世界を獲った経営者

アメリカの安全カミソリを考え出した起業家キング・キャンプ・ジレットは、ありふれた日用品に着目し、それを進歩させることで富を築いた人物だ。

ジレットは自分の発明の可能性を信じ、1901年にアメリカン・セイフティ・レザー社を設立、製品化しないうちから投資家の援助をあおいでいた。生産を始めた1年目、ジレットが販売したカミソリセットは51個、刃は168枚だった。1905年には、カミソリセットが25万個、刃のパッケージが10万個になっていた。

ジレットの成功の秘密は、ブランド構築に対するその進歩的な姿勢にもあった。使い捨ての刃の包装紙に描かれたジレットの肖像のおかげで、たちまち世界的な有名人になる。その社会理論を通して社会の改造に手を染めるようになったころには、ジレットの安全カミソリは世界中の男性にとって、日々の身だしなみに欠かせない道具になっていた。

成功への階段

キング・キャンプ・ジレットはウィスコンシン州フォンドゥラックで、発明一家の子として生まれた。父親は特許の代理人で、ちょっとした発明家でもあった。母親は台所での試行錯誤の繰り返しを財産にして、料理の本を書いていた。この本は1世紀を経た今でも、書店で販売されている。

ジレットが4歳のとき、一家はシカゴに移り、そこで金物の商売を始めた。運の悪いことに、この商売はシカゴの大火事で元も子もなくなり、1871年にもう一度引っ越しをする。今度はニューヨーク市だった。

ジレットは行商の仕事を得る。与えられた製品をただ売り歩くだけでは満足できず、その製品の改良をせずにはいられなかった。1890年には申請して認められた特許の数が4件になっている。1895年になると、コルクを使った王冠を発明した人物のもとで働いていた。

この人物は、ジレットにある簡単なアドバイスをしていた。「使ったら捨てられてしまうものを発明しろ」。ジレットはこの言葉を真剣に受け止め、安全カミソリに目をつけるようになる。

その当時の男性は、昔ながらの柄と刃がまっすぐくっついたカミソリを使ってヒゲを剃っていた。ところが鉄道が発達するにつれ、この素朴な道具を見直そうとする動きが生まれていた。揺れる車両の中でこれを使うのは、文字通り危険きわまりなかったからだ。重い刃が適切な角度で短い柄に取り付けられた、いくぶん安全なカミソリも生み出されてはいたものの、まだまだ大きな欠点があった。

ジレット自身は「スター」ブランドのカミソリを使っていたが、それはそれまでの刃と同じように、革製のストラップを使って絶えず研いでいなければならなかった。そして、この刃は使っているうちにやがて消耗し、そうなれば捨てるしかなかった。

ジレットにある考えが浮かんだ。薄い鉄板を細かく切断して、そこに鋭利さが長持ちする刃をつけることはできないものだろうか。そんな製品なら、切れ味が悪くなったところで捨てても惜しくないほどの低価格に抑えられるだろう。

転機と決断

新しい安全カミソリ開発の突破口を見つけるべく、ジレットはマサチューセッツ工科大学(MIT)の冶金学者を訪ねた。彼らはジレットにそのアイデアは実現不可能だと断言した。ジレットはあきらめることなく、自分の信念とビジョンを理解してくれる人を探し続ける。そこで出会ったのが、皮肉なことに、そのMITを卒業した発明家ウィリアム・エメリー・ニカーソンだった。

ジレットは研究に6年を費やした。その執念は1901年に実を結ぶ。この年、ニカーソンと共同してアメリカン・セイフティ・レザー社の設立にこぎつけた。そして1903年、新しい安全カミソリの生産を開始した。カミソリの刃は数枚を1つのパッケージにして販売した。カミソリの柄は刃とは別の製品として販売された。

1904年、社名を変えたジレット・セイフティ・レザー社は、この新しい発明の特許権を手に入れる。ところが発売直後の販売は期待外れだった。そこでアメリカとヨーロッパの男性向け雑誌や新聞などで集中的な宣伝キャンペーンを行った。これが功を奏して事態は改善した。1906年には、累計の販売枚数が1200万枚となり、売上高は9万ドルに達した。

その次には特許紛争が待っていた。カミソリといえば人口の相当な部分が潜在的マーケットであるだけに、破廉恥な特許侵害が巷にあふれた。つまり、競争相手はジレット製品のまがいものでマーケットに参入してきた。ジレットは対抗上、訴訟を起こしたり、たいていの場合はその企業を買収したりした。この間にも絶えず自分の発明に改良を加えている。そして1904年、2枚刃を思いつく。現在でもジレットの製品に生きているアイデアだ。安全カミソリの包装紙に自分の顔を描いたおかげで、ジレットは有名人になった。

カミソリ製品のおかげでキング・キャンプ・ジレットは大金持ちになった。けれども、それに満足することはなかった。哲学的そして政治的な強い信念があったからだ。ジレットは以前から、あらゆる人たちが協力し合うことを前提にしたユートピア的社会をめざすという理想主義的なビジョンを抱いていた。何百万ドルもの現金を手にし、産業界で影響力のある存在になったジレットは、それを現実のものにするための手段を手に入れた。

ジレットは自らのビジョンの概略を説明した本を何冊か書いている。その1冊目が『ヒューマンドリフト』(The Human Drift、1894年)で、ジレットブランドのカミソリを世に出す以前に出版されている。産業革命が進行する中での公害と都市開発の拡大を押し止めるために、巨大なガラスドームに覆われた公害のない都市の計画を立案した。この新たなユートピアでは、市民が株主となった1つの企業がすべての製品をつくることになる。そして「利己主義がなくなり、戦争は野蛮な行為として過去のものとなる」と書いた。

ジレットの執念が生み出した面白い副産物はいろいろある。ヘンリー・フォードとの出会いもその1つだ。第1次世界大戦前の一時期、ジレットは自分の会社を軌道に乗せるための1つの方策として、セオドア・ルーズベルト大統領に社長になってほしいと頼み込んだ。当然ながらルーズベルトが断ると、今度は作家のシンクレア・ルイスに接触し、フォードとの会談の段取りをつけた。ともに独断的で強烈な意思の持ち主である2人の大金持ちの会談は、まさに予想通りの結末になった。冒頭からこの2人は相手の言うことに耳を貸さず、自分の言いたいことを言うだけで、そのためしだいに腹を立て、あげくの果てはお互いに怒鳴り合う始末だった。

時代と業績

ジレットの社会改造の試みは無駄に終わった。

1929年のウォールストリートの株大暴落と、会社の役員会の権謀術数や、延々と続く特許訴訟などが重なって、自分自身の資産も失ってしまう。その後、他界するまでの相当長い時間を費やして、頁岩から石油を抽出する試みを続けたものの、うまくいかなかった。結局1932年、願いがかなわないまま他界する。

しかしジレット・セイフティ・レザーは、その創立者がつくり上げたイノベーションの伝統を体現し、安全カミソリ開発の最先端の立場を維持しながら成長を続けている。同社はシェービングフォームや制汗剤を発売し、ジレットが実行してきたこと、つまり2枚刃の安全カミソリ、自由回転ヘッド、使い捨て刃、そして3枚刃の改良を続けている。

キング・キャンプ・ジレットは、世界中の人々が毎日使う製品をつくり出した人物として記憶されることになるだろう。使い捨て製品のマーケットを開拓しただけではなく、同時に名声やブランドの力もいち早く見抜いていた。自社製品のパッケージに自分の肖像を描くことによって、ジレットは有名になり、これが消費者にその品質を信頼し安心して購入してもらうための力になった。さらにこの力によって販売が飛躍的な伸びを示し、ジレット・セイフティ・レザーをマーケットリーダーの地位にまで押し上げた。

プロフィール
1855 誕生
1871ジレット一族の金物の事業が衰退
1890 特許を4件取得
1894 『ヒューマンドリフト』を執筆、出版
1895コルクを使った王冠の発明者の会社、クラウンコーク&シール社で働く
1901ジレットとニカーソンがアメリカン・セイフティ・レザー社を設立
1903 安全カミソリの新製品の生産開始
1904 社名をジレット社に改める。新発明の特許を認められる。2枚刃を発明。この着想は現在でも製品に活かされている
1905 累計販売枚数が1200万枚となる。売上高は9万ドル
1915 年間販売枚数が700万枚となる
1932 他界

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女子高生社長がパクリサイトで炎上…その後の対応が素晴らしすぎると話題に

▼話題の女子高生社長・椎木里佳さん

中学校3年生当時の2013年、バレンタインデーにあたる2月14日、起業家の父の助言を受けつつ、「かわいいを社会に発信」をテーマにメディア事業や女子中高生をターゲットにした商品やブランドのプロデュース事業を行う株式会社「AMF」を設立、代表取締役社長に就任。

出典 https://ja.wikipedia.org

なんと中学校3年生の時に起業!
今年は著者も出版した現在高校3年生の椎木里佳さん。

▼テレビにもよく出演されます

2015年には株式会社TOKYO GIRLS COLLECTION、タグピク株式会社、および株式会社メイキーの顧問に就任したほか、『サンデー・ジャポン』、『人生が変わる1分間の深イイ話』、『あさイチ』など、メディア出演があった。

出典 https://ja.wikipedia.org

今一番勢いのある若者起業家との声も上がっています。

▼実はAKB48ファンの椎木里佳社長

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普段テレビではカリスマ的な面を見せていますが、実はAKB48ファンだったりとプライベートでは普通の女子高生。
そんな一面も併せて女子中高生を中心に人気を集めています。

しかし今回、椎木里佳さんが社長を務める株式会社AMFのアプリサイトにある問題が発生…。

▼パクリ疑惑が出た株式会社AMFのアプリ「ミルピク」サイト

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椎木里佳さんが運営する株式会社AMFがリリースした「ミルピク」という画像検索アプリ。
この「ミルピク」サイトのCSS(※)が、はてなブックマークのアプリ「Presso」のサイトと酷似しているとの声が上がりました。

2ちゃんねるなどの掲示板で炎上、Twitter上でも大きな話題になります。

(※CSSとはサイトのデザインなどを指定する言語のこと。)

怒りの声や呆れの声が多数上がる中、この炎上状態に終止符を打ったのは椎木里佳社長でした。

▼椎木里佳社長による大人顔負けの立派な対応

問題のサイトを閉鎖し、エンジニアの所為にせず自身の監督責任だと綴っています。

▼はてな社にもしっかりと謝罪

この神対応で炎上はすぐにおさまり、逆に迅速な対応を称賛される展開に。

他社のサイトをパクってしまった事実は変えられませんが、今回の椎木里佳社長の対応はなかなか見られないくらい迅速で完璧な対応だったと思います。

近年、自社のミスを責任転嫁し知らんぷりをする社長もいる中、素晴らしい対応でした。
今後どんな経営手腕を見せてくれるか楽しみですね!

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JK社長のぶっとんだところ

1997年11月生まれ、中学3年生のときに若くして起業した女の子がいる。その名も椎木里佳(しいきりか)。不景気の中、公務員になりたいという安定志向の若者が増える一方で、早々に起業家になりバイタリティ溢れる活動をみせる彼女の素顔にせまった。

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椎木里佳ちゃんは中学3年生のときに自身がモットーとしている3つの言葉、Appreciation(感謝)、Modesty(謙虚、Full-power(全力)の頭文字をとって株式会社AMFを設立。背中を後押ししてくれたのは、すでにビジネスの世界で大成功している父親の影響が大きかった。

一見普通の女の子にみえる女の子だが、その素性を知れば知るほど中身はぶっ飛んでいることが分かる。常人とは違う8つの特徴を紹介しよう。

(1)事業内容はこれから考える

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会社HPには堂々と「現在ビジネスプランを考え中です」と書かれている。それでも「女子高生社長」という肩書が目を引くのか、メディアや雑誌の取材依頼はひっきりなしに来るようで、もはやそちらが本業になりつつある。IT化の進展で少ない元手でも起業が可能になった昨今。知名度をあげてから事業を興すというのは新しい手法かもしれない。

(2)収入は新卒並

 

「収入は普通の新卒社員くらい」というのだから、月18万円ほど稼いでいるようだ。女子高生でありながら、学業の傍らで仕事をしてここまで稼げているとは素晴らしい。

(3)スーパーIT灘校生だったTehuと仲良し

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椎木さんはタイプですか? — 弟子です。。。 http://t.co/jas0ovTFS2

 

twitterではTehuこと張惺と度々会話している様子が伺える。同年代で若くしてビジネスの世界で活躍しているということで波長があうのだろう。

(4)オフィスは六本木ヒルズ

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資本金45万円とかなり少ないのに、いきなり六本木ヒルズノースタワーにオフィスを構えている。レンタルオフィスだろうか。それでも、賃料はけっこうな額がするはず。

(5)父親は秘密結社鷹の爪を運営する株式会社ディー・エル・イーの椎木隆太社長

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こちらのアニメは誰でも見たことがあるのではないだろうか。

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2014年3月に東証マザーズ上場を果たした株式会社ディー・エル・イー。すでに保有株の一部を売却して億万長者になったという噂も聞かれる。

参考:「秘密結社鷹の爪」の社長の嫁が上場直後ココしか無いってタイミングでDLE株を綺麗さっぱり売り抜け
http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65787519.html

(6)TVに出演した際には「東証上場最年少狙ってる」と発言し、強い野望を見せつける

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19歳で上場して記録を塗り替えたいと意気揚々。かわいい外見とは裏腹にホリエモン並に野心の塊だ。

(7)高校の偏差値は70超

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公表はされていないものの、通っている高校は偏差値70オーバーでかなり頭はいいとのこと。本当かどうかは分からないが、2ちゃんねるでは慶應義塾女子高等学校だという書き込みが散見された。

(8)自宅が豪華

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さすがは社長令嬢。家の中で写した1枚の写真だけからでも金持ち感を漂わせている。ぼんやりと見える外の風景から察するに高層階のマンションか!?

5/7、21:03 追記
ご本人から、こちらの画像は自宅ではなくサンリオ本社だというご指摘を頂きました。訂正してお詫びいたします。

 

***

ここまで見てみると明らかに普通の人ではないことが分かる。社長の娘として生まれたという運もさることながら、事業もろくにきまっていないのに会社を設立してしまうあたりの行動力は起業家向きだといえよう。これから高校を卒業して自由な時間が増えれば、まだ定まっていない事業も順調に育っていくものと思われる。

これからどのような人と出会い、どのような方向に向かうのか。椎木里佳ちゃんのこれからに期待が集まる。

おまけ「インタビュー動画」

社会人なってからプログラミングを習得した5人の経営者達

プログラミングを学んでみると想像以上に難しくて時に挫けてしまいそうな気持ちになる人は多いのではないでしょうか?社会人の方ですと学習に割ける時間もあまりないと思います。そんな方々のためにプログラミング学習のモチベーションがあがるような記事を提供します。

今回ご紹介するのは「非エンジニアだったがプログラミングの大切さに気づき、社会人という忙しい立場の中でもプログラミング学習を続け、最終的に大きな成果を上げたビジネスパーソンの方々」です。

1-Instagram CEO ケヴィン・シストロム

写真:もはや”一大文化”。インスタグラムが熱い

プログラミングを学んでいる非エンジニアの人たちの憧れと言っても良いのがInstagram CEOのケヴィン・シストロム氏です。Instagramと言えば、過去にFacebookに10億ドルで買収されたことでも有名ですが、今やアクティブユーザー数2億人という大人気写真投稿アプリです。そのアプリが実は最初は非エンジニアだった若者によって作られたことはご存知でしょうか?シストロム氏の本業はマーケティング業務でした。彼は正式なエンジニアリングのトレーニング経験もなく、昼間の仕事の傍ら、夜間に独学でプログラミングを学んだといいいます。

2-Skype 元CEO トニー・ベイツ

写真:Skype to Be Integrated Into Windows 8, Says Skype CEO
トニー・ベイツ氏(46歳)はSkypeの元CEOで、以前まではMicrosoftのCEOの最有力候補としても期待されていた人物です。他にも略歴として米通信機器メーカーのシスコのゼネラルマネージャー、ユーチューブ(YouTube)の取締役会メンバーを経験しております。 そんな世界で最も多忙な社会人と言える彼が実はプログラミングを仕事の傍ら、学んでいたのです。 それは、通勤時間でした。彼は非エンジニアにも関わらずプログラミングマニュアルを読み、プログラミングについての理解を深めていたのです。彼が世界の名だたるIT企業の役員やCEOを経験している所以は非エンジニアの彼がビジネスについてだけでなく、エンジニアリングを理解しようとしていたからでしょう。

3-Zaim 代表 閑歳孝子


写真:「愛と執着心で人がほしがっているものをつくる」(株式会社Zaim代表・閑歳孝子)
閑歳孝子氏は100万人が利用している日本最大級オンライン家計簿サービス「Zaim」を運営する株式会社 Zaimの代表です。閑歳氏はかねてからプログラマーにあこがれがあり、高校の時にVisual Basicに触れた事もあるそうですが、社会人になってからはプログラミングに触れる機会がほとんど無く、その後、友人がやっているベンチャーに入ってから久しぶりにHTMLを書くことから徐々にプログラミングを始めたそうです。 同氏は生粋のエンジニアというより、むしろただ実現したいサービスやツールがあって、そのためにプログラミングを学習してコードを書いている一人で元は非エンジニアです。 生粋のエンジニアにならなくても、インターネットで何かつくりたいという思いがある人は、プログラミングは理解できたほうがいいという事がわかります。

4-Wantedly CEO 仲暁子


写真:Wantedly代表・仲暁子「シゴトでココロオドル人をふやし、個人のパフォーマンス、そして国全体の生産性を上げる」
仲暁子氏はフェイスブック、ゴールドマンサックス等の輝かしい経歴を経て、 Wantedlyという最大手ソーシャルリクルーティングのサービスを1から作り上げた女性起業家です。 同氏は様々な業界に携わり、その中で「企画から開発までできるエンジニアは神」という価値観と出会い、フェイスブック社を半年で退社してからは プログラミング技術を独学で学びました。フューエル株式会社を設立し、サービスの企画、サイトのプログラム、デザイン、 さらにイラストまでを彼女ひとりで手がけて『Wantedly』を立ち上げました。「サービスをリリースする」という目的に向けてプログラミングやデザインを学ぶ姿には強い思いが垣間見えます。 同氏が初心者の段階からWantedlyという素晴らしいサービスをつくるまでのストーリーはブログを通して知る事が出来ます。

 

5-GREE CEO 田中良和

写真:グリー田中社長が語る「優れたエンジニア」

田中良和氏と言えば現在会員数2700万人超のGREEの創業者です。ですが、そのGREEは最初は田中氏個人のサービスとして始まった事をご存知でしょうか?
彼は新卒でso-netに入社した後、当時まだ社員50人程度のベンチャー企業だった楽天に入社し、コミュニティサービスの立ち上げを任され、プログラミングを1から独学しました。そのノウハウを同時に趣味として活かそうと始めたのが「GREE」の開発なのです。 楽天を退職する頃には、「GREE」はユーザー数、数十万人を突破していました。在職中から単独で開発をはじめ、ボランティア的に運営していたサービスが人気になり始めていたのです。趣味として始めていたサービスでもこんなにも巨大なサービスになることもあるという例です。

まとめ

今回ご紹介した方々は、作りたいサービスを見つけたり、プログラミングの大切さを知った結果、忙しくてもプログラミング学習を続け、最終的に大きな成果につなげた方々です。
忙しい社会人の方が毎日の中でプログラミングの学習を続けるということは大変な事ですが、世界では忙しくてもプログラミング学習を続けて成果をあげた人がいるということを再発見いただき、今後のプログラミング学習のモチベーション維持に役立てていただけると嬉しいです。

下記に弊社のサービスであるCodeCamp受講生の方の体験談を載せておきますので併せてご覧になってくださいませ。
株式会社アイエムジェイ、執行役員川畑様インタビュー
マンツーマンのプログラミング研修で確実に習得!エンジニアに限らず、技術に精通した人材を育てていきたい!

プログラミング道場三期生内田様インタビュー
大好きな「ケニア」の現状を伝えたい!その表現手段として、プログラミングを選びました

プログラミング道場三期生宮本様インタビュー
独学では一か所詰まればそこで終わり、プログラミング習得には質問できる講師の存在が大きい

プログラミング道場三期生雨澤様インタビュー
一つでもいいから一から成果物を作る、その成功体験がプログラミングを続けていく自信につながる

プログラミング道場二期生西宇様インタビュー
結婚しても自分の好きな仕事を続ける、プログラミングができたらそんな未来も自在に描ける!

プログラミング道場二期生神崎様インタビュー
今や身の回りのほとんどがWebの時代、キャリアアップにプログラミングは必須

プログラミング道場一期生吉本様インタビュー
0からのプログラミング。自分のアイディアが形になるのは何とも言えない面白さがある!

 

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ライブドアやホリエモンについての話を聞くと、現在のスタートアップ・ベンチャーが小粒に思える。

LINE大躍進の陰には、ライブドアや堀江貴文氏の功績があるか。

LINEが上場申請 時価総額は1兆円か―という報道がなされたのは7月のこと。今月に入り上場時期の見直しを報道されたが、それでも注目度は依然として高い。時価総額世界一を目指した堀江貴文率いるライブドアが形を変えて、世の中に大きな旋風を巻き起こしている。報道からひと月後に、元社員によるライブドアを回想する本が出版されたのも偶然ではないだろう。

 

変化の激しいWEB業界において、ライブドアの名前を思い出すことはなくなっていたいま。LINE上場話と先述した書籍をきっかけに、改めてライブドアと堀江貴文氏について考えてみた。と言っても、堀江氏と面識があるわけでなければ、センセーショナルな事件について考察できるわけでもない。8月出版のライブドアについて語られた書籍『社長が逮捕されて上場廃止になっても会社はつぶれず、意志は継続するという話』著者である、小林佳徳氏に当時のお話を伺った。

小林氏は現在、ライブドアとは無関係の企業で働いているのだが、当時の仲間たちの多くがLINEで重要な役割を担っている(代表取締役である出澤氏、上級執行役員の田端氏、執行役員の池邉氏、落合氏、佐々木氏など多数)。LINE社の成長には、ライブドア社の功績(改めて功績だったのだと感じている)が関係しているのではないだろうか。ライブドアや堀江氏は何がすごかったのか。


※小林氏の書籍は、読者投稿型サイト『STORYS.jp』の記事が基となっています。
※『STORYS.jp』については、立ち上げメンバーへのインタビューを実施しています。

時価総額6000億円の会社でありながら、30万円の採用費を捻出させなかったホリエモン。

小林佳徳氏

― 小林さんの執筆された本を読みました。堀江さんも書評を書かれていますね(笑)。そんな書籍を基にしながら、LINE上場申請の話もありますし、改めてライブドアという会社や堀江さんについて話を聞いてみたいなと。

ライブドアに在籍したことが、実は2回あるんですね。最初は2003年5月から2006年3月、そして2006年7月から2008年12月まで。社長が逮捕されたのは2006年1月なので、事件から2ヵ月で最初の退職をしました。それから3ヵ月でスピード出戻りしたわけですが(笑)。二度目の入社に際しては、元上司の出澤さん(現LINE代表取締役)が、社内で一番大きな事業部の責任者となり、「一緒に会社を再建しないか?おまえのやりたいと言っていた人事など管理系の仕事を任せたい」と言ってくれたから。

声をかけてもらえたのは嬉しかったんですが、大見得を切って飛び出した手前、出戻りすることは非常に悩みましたよ。でも数日後にライブドアに残っていた仲間と食事をする機会があって、「ぶつくさ言ってないで、チャっと戻ってきて、チャってやればいいのよ」なんて激励に背中を押されました。

― 第一期ライブドア時代は、モバイルサイトのWEBディレクターでしたよね。同じ職種ではなく、人事を希望していた理由は?

事件前からライブドアという会社に対して、開発や営業という攻めには強いけど、管理部門の守りという部分が弱点だと感じていたんですね。事件が発生したのだって、そのウィークポイントを突かれてしまったからじゃないかと思うくらいに。再建してもう一度上場したいと思っていたので、まずはこの部分に着手するべきだと考えたんです。

ライブドア採用ページ

ライブドア求人広告

そもそもライブドアって、人事部の採用業務が機能していない会社でした。新卒採用というものはほとんどやっておらず、採用予算も驚くほど少なかった。当時、採用手法の代表といえば求人広告の出稿じゃないですか。各媒体に出稿するわけですから、お金がかかるんですよ。でも、「社員なんてお金をかけて採用するものじゃない」という風潮があって。その証拠に、事業部長が決済できる費用の上限が10万円。時価総額で6000億円あった会社がですよ。当時はエン・ジャパンの媒体も利用させていただいてましたけど、一番安いプランを異例の3分割という支払方法で(笑)。担当の営業さんにもがんばっていただきましたし、我ながら涙ぐましい努力をしていたな、と。

堀江さんのすごいところでもあるんですが、請求書のすべてに目を通してハンコを押していました。「この鉛筆10本で100円ってなんだ!」みたいな感じで。コスト意識が非常に高い人でしたね。社員数が増えてオフィスを増床しないと入りきらないという話になったときも、「床と天井の間に一枚板を入れたら、倍入るじゃないか」と口にするような人でしたから、他の企業のように「エン・ジャパンをつかって、どこどこを使って…300万円」なんてまかり通るはずもなく(笑)。

いま流行の採用手法を、事件前から取り入れていたライブドアの先進性。

小林佳徳氏

― 事件後は、それまで以上に採用で苦戦することになると思うのですが。

まず苦労したのは、お金を払っても媒体掲載を断られたこと。業界ナンバーワンの会社に電話したときも、やんわりと事件のあった会社なので…と断られました。いくつかは掲載させてくれる媒体もあったので、それは助かりましたね。

とはいえ、相変わらずお金をかけない方法を模索しまして。まず手を入れたのが、自社の採用ページ。それまでは技術の会社だったくせに、酷いものでした。やると決まれば高いスキルを持った技術者が在籍していましたから、2週間程度の突貫工事でもそれなりの見栄えになって。改めて技術の会社だと実感すると同時に、応募者が集まるようになったんです。

ライブドア採用ページ

小林氏が立ち上げたブログ

それから、今でこそ珍しくないですが、技術者向けの「テクノロジーセミナー」を開催して、集まったエンジニアにそれとなく声をかけるというイベントを行ないました。ちょうど事件後、はてなのCTOだった伊藤直也さんがブログで、ライブドアの技術力の高さについて触れてくださって。じゃあということで、ライブドアの開発部長だった池邉さん(現LINE執行役員)とのディスカッションをプログラムに組み込んだんです。こういう社外活動と並行して、エンジニア自身にブログで自社の技術力を発信してもらい、働きたい思うエンジニアを増やしていきました。
他には、これも最近じゃ珍しくもなんともないんですが、エンジニアやデザイナーは仕事で使うPCを自由に選べるようにしたんですね。当時はメジャーな話ではなかったと思います。実は事件前って、もっと自由でして。基本的にPCは自前で持ち込むスタイル。今で言うところのBYODを先取っていたと言えば聞こえがいいですが、情報漏えい問題が叫ばれる現在じゃなくても、事件を起こした会社ですから、問題どころの騒ぎじゃないですよね(笑)。きちんと情報の管理を徹底しなくちゃいけない事情があったんですが、それでも職種によっては自分の道具を選べるようにした。

採用手法でいうと、事件前からも変わったことをやっていて。今ではインターンシップからの入社って珍しくないですけど、ライブドアでは2000年代の最初からやっていたんですね。大学生とか若い子をアルバイトとして一年ほど仕事の経験をさせて、それから正社員登用するっていう。インターンシップの走りみたいなことをやっていました。

― 当時のライブドアの採用スタイルだったり、人とのコミットの仕方って、今のベンチャー企業に近いものを感じますね。

そうですね。先取りをしていたかはわかりませんけど、そういえばホリエモンもブログの中で、「色々なことを先取りして会社を使って実験していた」って書いていましたね。当時から、働き方が未来に向かっていくと、パソコンの持ち込みしかり、採用手法だって雇用形態や勤務体系だって、必然的に変わっていくよねという考えが社内にありました。「バックオフィスが稼げるようにならなくちゃいけない」と社内コンビニ事業をやったり、360度評価なんてのも10年以上前から取り入れてましたしね。

あの風土はなんて表現するべきなんだろう……自由というのもそうでしょうけど、根本は自己責任ですね。採用するために、会社として大勢を集めたセミナーを開くとかじゃなく、自分たちの力で、自分たちの方法で仲間を集めろ、みたいな。全部、自分で用意しろ!みたいな。教育というのも整っていなかったので、ある意味『ろくろ職人』のような「俺の背中を見て育て!」という感じでした。それでも「面白いです」「がんばります」「ついていきます」という人が残っていたから、何かをぶち破るようなサービスを生むことができたんじゃないかと振り返って思いますね。

ライブドアが存続していれば、LINEのようなサービスを10個は生み出していた。

小林佳徳氏

― 自己責任を突き詰めた結果、新しいサービスなり採用手法を考えていけたということでしょうかね。その中でも規律のようなものはあったんでしょうか。

あんまりなかったかもしれません(笑)。例えばPCを持ち込みOKだったころって、あちこちでウイルスをばらまくヤツがいたんですよ、意図的にではなく。当然、周囲に感染する人が出てくるんですが、それも極端な言い方をすると「自己防衛しないヤツが悪い」みたいなところもありました。自宅で作業をしていて、子どもが走り回って電源コードが抜けてデータが飛んでしまう、というのと同じレイヤーで考えていましたので、自分で対策をするのが当然だ、みたいな(笑)。

― けっこう、モラトリアムな会社だったんですね(笑)。そんなライブドアが、形を変えたというか、そこで活躍していた人がLINEで要職についたりしています。そういう姿を見て思うことだったり、ライブドアという会社の存在について聞かせていただきたいのですが。

基本的にはポジティブで、良かったなと思っています。ただLINEについてはひとつの例に過ぎない、それがすべてと思われたくないという感情はあるんです。ライブドアにいた優秀な人たちが残ったからLINEが成功したんだ、というのもひとつの結果なのですが。あのときの経験を持つ人は、LINEだけじゃなくて例えば、gumiやグリー、楽天の執行役員になっていたり、ハフィントンポスト日本版の元編集長だったり、起業を含めて、大勢が成功しています。更に、ライブドアに在籍しなかった人でも、こういう業界を目指した若者がいたりと、間接的な影響まで含めれば凄いものがあるとは思いますよ。

じゃあライブドアは何をしたのかというと、これは個人的な夢物語みたいなものなんですが、時代の変化をグっと加速させる役割を果たしたんじゃないかって。パラダイム・シフトっていうんでしょうか、ライブドアの存在によって、業界やWEBサービスの進化が速まったということなんですけどね。一方で、ライブドアが時代を劇的に変える存在だったかというと、それも違うんでしょうね。ライト兄弟が飛行機を発明しなかったとしても、その後に別の誰かが発明しただろう、と。飛行機はライト兄弟の存在なくして生まれなかったのではなく、いつかは生まれていたんだろうなって。同じように、ライブドアやホリエモンという存在があったから、10年かかるところを5年になったかわかりませんが、インターネットやテクノロジーに対する理解が促進されたり、スマホが普及していったりと、時代が進んだと信じています。

― なるほど。今のテクノロジーが栄える一助になった。時期を早めることに一役買った、という認識なんですね。その結果のひとつが、このタイミングでのLINEであると。では、ライブドアがああいうカタチにならなかったら……と考えることはありませんか?

夢物語ついでになりますけど、逆説的に考えると、もし事件がなかったりとか、事件後も自粛することがなく、買収されることもなかったら……。この期間があれば、LINEみたいなサービスを10個とかうみ出していただろうと思うことはありますよ。それくらいのめちゃくちゃなスピード感でした。『たら・れば』や理想を言っても価値はないんですけど、でもそうかなって気もするんですよね。そう思わせるのは、ホリエモンやライブドアの凄さかもしれませんし、たまたま時代の流れに乗っていただけなのかもしれません。もっと言えば、それが「日本」という国の器の大きさと言えたんじゃないかなと。

まぁ、堀江さん自身に聞いたり語ったりしても「興味ない。知らない」って言うでしょうけどね(笑)。

― 色々なエピソードを伺って感じるのですが、ライブドアという会社は3000名規模になった後でも、ベンチャーだったんだな、夢を追いかけられる会社だったんだな、という印象があります。そういう意味で、現在のスタートアップやベンチャーと呼ばれる会社は、もっともっと無茶苦茶していいでしょうし、期待が持てるなと思いました。

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クラウドファウンディングは欠点ばかり!? ホリエモン「正直、金持ちに出資してもらった方がいい」

ホリエモンこと堀江貴文が、自身のメルマガに寄せられた質問に答えるYouTube番組「ホリエモンチャンネル」。「堀江貴文のQ&A vol.554〜どこから資金を集める!?〜」では、ホリエモンが期待されることの多いクラウドファウンディングの欠点を語った。

今回取り上げた質問は、「ある程度、日本でもクラウドファウンディングが浸­透してきていますが、今後、アートなど特定ジャンルに特化したクラウドファウ­ンディングの成長はまだ見込めますか? クラウドファウンディングの将来性や新たなビジネスモデル案などがあればお聞きしたいです!」という質問。

ホリエモン「小口のお金を出す人ほど文句が多い!」

ホリエモンは、「投資型クラウドファウンディングも始まったし、消費者から直接資金を集めるタイプのビジネスはまだまだ成長するはず。特化型はニッチになってしまうので、収益はあまり出ないと思うけどね」と回答。

研究者特化の「academist」やゲーム特化の「Crowdrive」など、多様なジャンルで利用されるようになったクラウドファウンディング。ホリエモンが成長を見込む投資型クラウドファウンディングは、完成した商品の販売やサービスの優待、成果の報告などで出資派にリターンを出す仕組みだ。

資金がない人の大きな支えになりうるクラウドファウンディングだが、ホリエモンはその欠点を指摘する。それは、出資者へのリターンが難しいことだ。

例えば、ホリエモンは「小口の出資者ほど文句が多い」と話す。財力がある投資者だけでなく一般人からも協力を募れるのがクラウドファウンディングの強みだが、そうした人は出資額の割に事業に対する注文も多いのだという。

一人あたりの出資は少ない分、大勢から意見されることになるので、「結局はお金持ちから集めた方が良いんだよね」とクラウドファウンディングにも不向きな事例があることを示した。

クラウドファウンディングの欠点は、リターンの難しさ!

今回のゲストでLiNK-UP株式会社などの創業者 小田吉男氏は、「リターンがめんどくさくて難しいんだよね」とクラウドファウンディングの欠点を総括。他にも、システム運営者への手数料もあり、そう簡単にお金が集まるわけでもない。

ホリエモンチャンネルアシスタントの寺田有希氏も、「例えば、コンサートのチケットを優遇しようとしても地方の人は来ることができないし……」と多くの人に喜ばれるリターンの難しさを実感。悩んだ末、彼女はクラウドファウンディングを実施しなかった。

こうした欠点から小田氏は、「100万円くらいまでの規模なら、リターンなしの寄付で募った方がいいかも」と話す。それならリターンに悩む必要もないし、少額なので比較的出資を募りやすいはずだ。

ネット時代ならではの無限の可能性を感じさせるクラウドファウンディングだが、実装されることで欠点も浮き彫りになってきた。小田氏も、「アイデアはいいけど、まだ成熟しきっていないかな」と慎重な意見だ。

可能性こそ秘めるものの、大勢から出資を募るゆえの欠点も少なくないクラウドファウンディング。使用する際には、あくまで資金集めの一手段として他の手法と冷静に見比べる必要がありそうだ。

ホリエモンがクラウドファウンディングの欠点を語った「堀江貴文のQ&A vol.554〜どこから資金を集める!?〜」。動画が見たい方はこちらからどうぞ!

YouTubeホリエモンチャンネルで採用しています質問はホリエモンのメールマガジン「堀江貴文のブログでは言えない話」のQ&Aコーナーからピックアップしています。メールマガジンでは毎週、読者から寄せられる質問全てにホリエモンが答えてくれます。あなたの悩み・疑問をホリエモンにぶつけてみませんか?

 

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尊敬し合う対照的な名経営者 情熱の天才・孫正義、冷徹な知性派・柳井正

実質的な創業社長として日本を代表する2人、ユニクロなどを展開するファーストリテイリング社長の柳井正氏と、ソフトバンク社長の孫正義氏について、本連載では3回にわたって比較・分析してきました。ここで改めて、2人の特徴の相違を上記表で整理しておきます。

●孫正義の誇大妄想

上記表で掲げた「基本的な事業性向」と「ビジネス拡大の手法」については、これまでの本連載で分析してきました。この2つの視点で2人の経営手法を観察すると、「異名を付けるなら」の項目に収斂されると思います。


 『本当に使える戦略の立て方 5つのステップ』(山田修/ぱる出版)

まず孫氏ですが、柳井氏自身が「孫氏は経営の天才だ」と評したことを本連載第1回で紹介しました。名経営者の柳井氏が一目置くほどの孫氏の天才ぶりは、学生時代から表れていました。せっかく入学した九州の名門高校を1カ月で中退し米国の大学に留学、さらにUCバークレー大学院に進み、在学中に起業してしまう。こんな経歴はスティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツ、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン(グーグルの創業者)などと重なり、当時の日本ではほかに見当たらない経営者としての出現ぶりでしょう。孫氏自身が、若い時のことを振り返って次のように述べています。

「僕は小学生1、2年のときからいずれ何万人の部下を持つ会社をつくると思っていました。(略)16歳でアメリカ留学する時、親にも友達にも学校の先生にも止められました。しかし英語の勉強やアメリカを体験するのは、大人になって頭が固まってからでは遅い。若いうちに世界を見たいと一人決意してアメリカに飛び出しました。その時からいずれ日本で事業を起こす。日本で成功させたら世界で勝負したいと当時から言っていました。誇大妄想狂といわれていましたが(笑)」(「企業家倶楽部」<07年4月号>)

孫氏は、事業を拡大していき次の歩を進めるたびに、まるでそれまでは視野に入っていなかったような大きなビジネス・チャンスにかけて、つまりリスクを取って大躍進を続けてきました。

●冷徹犀利な柳井正

柳井氏の業容の発展ぶりは、孫氏と対照的です。ビジネスに参入した経緯も、実父が開いていた、それこそ町の洋品店を継いだからにほかなりません。そしてグループ年商が1兆円を超えた現在でも、ビジネス構造的には当初の業態を保持しています。「衣料、ファッション、関連する流通」というカテゴリーの中でひたすらビジネス・モデルを発案し精緻化することによって、業界内の帝王の地位にたどり着いたのです。

 

氏ほどの派手な学歴はありませんが、柳井氏は経営者としては恐ろしいくらいの勉強家で、その帰結として論理的な経営判断を下す性向が強く見られます。『プロフェッショナルマネジャー』(ハロルド・ジェニーン著/プレジデント社)という本の解説を柳井氏が書いています。著者のジェニーン氏はITT社という米国の大手通信社を経営して連続20年以上増益させたという名経営者で、柳井氏が心酔した人です。

本書に寄せた柳井氏の解説は30ページ近い。その分析や批評は大学の経営学の教授を思わせるもので、とても通常市井の経営者が自分一人の限定的な経営体験から書き出せるものではありません。冒頭の表で孫氏を「情熱、感性の天才」と評しましたが、柳井氏はつまり「知の経営者、冷徹犀利」と捉えることができます。

本書が出たのは04年、つまり10年前ですが、その時にはすでに柳井氏は自分の経営スタイルをしっかりと自覚し把握しています。例えば、柳井氏は「数字把握力」ということの重要性を書いています。数値経営に立脚すると、その経営者はロジカルな経営アプローチを目指すことになります。

そんな柳井氏のことを孫氏は次のように評しています。

「柳井さんは客観的に冷静にものを分析して、しかも弱点や欠点を着実に埋めていくという、理系の目をもっています。それを冷静に一つ一つ積み上げていく。分析能力と決断力と何が何でも利益を積み上げていくという執念がすごい」(「企業家倶楽部」<07年4月号>より)

日本電産永守社長は最強の経営者か-「カス」鍛え電子部品帝国

モーター部品を製造する日本電産創業者の永 守重信社長はこれまでの自社の成長を支えてきたのは東大やハーバード 大卒のエリートではなく、会社が小さかったときに採用せざるを得なか った「カスみたいな」人材だという。

1973年、高度成長期を経て豊かさを手に入れた若者がペアルックで 街中を闊歩(かっぽ)し、地方から中央競馬に転身したハイセイコーの 快進撃に熱狂していたこの年の7月、京都市の片隅の民家にある小さな プレハブ小屋で日本電産は誕生した。

永守氏ら創業メンバー4人は世界に通用するモーターメーカーを目 指して製品開発や営業、資金調達に奔走。社員確保には特に苦労した。 一流大学の学生には見向きもされず、声が大きい順、食事を速く済ませ た順に採用を決めるユニークな試験も実施して話題を集めた。

それから42年、日本電産の部品はスマートフォンから自動車まで多 様な製品に使われるようになり、連結売上高1兆円、時価総額2兆8000 億円超、世界で12万人以上の従業員を抱える電子部品帝国に変貌を遂げ た。ブルームバーグのデータによると、永守氏自身も保有自社株の時価 総額だけで2400億円を超える国内10位の富豪となった。

永守氏は京都市の本社でのインタビューで、大きな成功をもたらし た経営の要諦について「人の意識を変える」ことだと話した。「どんな だめな人でもうまく使えば戦力になる」との信念の下、鍛え抜いて育て た部下たちが今や同社の高い成長と収益力を支えているという。

気概と執念

永守氏に関しては猛烈な仕事ぶりや独特の経営哲学が自身の著書な どを通じて知られている。大声や早飯競争による採用、新入社員にトイ レを素手で掃除させていた話などは特に有名だ。永守氏はインタビュー で、人材採用や教育方法の考え方は今でも「基本的には変わっていな い」とし、学歴よりもやる気や情熱を重視していると話した。

今年1月の報道関係者との懇談会では、創業からしばらくは「ロク な人間が来なくてカスみたいなのばかりを採用した」とし、「それをな んとか教えて、教えて、教えてみんな偉くなってきた」と述べていた。

最近でこそ一流大卒のエリートも採用できるようになったが、実際 に経営を任せると「全然できていない」ことがあると分かった。その一 方、「3流大学の2浪2留年、それを足で蹴りまくって育ててきた」部 下たちが今や子会社で高い利益率をたたき出している事実を指摘し、 「経営は頭でなくて気概と執念」との思いを新たにしているという。

「すぐやる、必ずやる、できるまでやる」を合言葉に猛烈なハード ワークを部下にも求める永守氏を古臭い根性主義者ととらえるのは間違 いだとアドバンスド・リサーチのアナリスト、スコット・フォスター氏 は指摘。「永守氏は自分がしていることを理解している。やる気を引き 出してさまざまな問題を解決していく人材再生の達人」と定義づけた。

M&Aで全勝

日本電産の急成長は積極的に手掛けてきた企業の合併・買収(M& A)抜きには語れない。主なものだけで約40件を手掛けたが、永守氏は それらが「100%成功」だったと振り返る。

2000年以降は海外企業へのM&Aを加速。スマホの普及で主力製品 だったパソコン用ハードディスク装置の需要が下火になるとみるや、自 動車用や産業用大型モーターを持つ企業を相次ぎ買収して傘下に納め、 市場の変化に合わせて事業ポートフォリオを再構築した。

永守氏は失敗の確率が特に高いと言われる海外企業のM&Aにおい ても特別な秘訣があるわけでなく、「社員の意識を変えただけだ」と述 べ、一度もリストラをしなかったという。

大量解雇による合理化で企業を再建する手法から「チェーンソー」 の異名を取ったアル・ダンラップ氏や、成績下位10%の従業員を毎年解 雇し入れ替えた米ゼネラル・エレクトリック(GE)のジャック・ウェ ルチ氏ら過去の欧米の著名経営者とはアプローチを異にしている。

「儲からない」には理由

M&Aで永守流の意識改革は多くの場合、買収した企業の従業員を 集めて問題点を指摘することから始まる。意識改革の具体例として、03 年に赤字に苦しんでいた老舗モーターメーカー、三協精機製作所(現日 本電産サンキョー)を買収後に調達部門の担当者を集め、こんなやり取 りを交わしたという。

「この部品を一体いくらで買っていますか」との質問に「100円で す」との返事があると、「それは高いと思うか安いと思うか」と続け る。「非常に安く買っていると思う」との回答に、永守氏はその場で自 社の同じ部門に電話して、日本電産は80円で調達し、まだ引き下げの必 要があると話させる。会話はスピーカーで室内に流れ、2割高以上で買 っていたと知った三協の担当者はうなだれるばかりだったという。

こうした会社の場合、トイレットペーパーから社用車のガソリンま であらゆるものを高く調達していることが多いという。三協での収益改 善は一気に進み、わずか1年で黒字に転換した。

永守氏は企業が「儲からないのは理由がある」と話す。「怠けてい る人が多い会社、工場が汚い会社、社員がよく休む会社」ほどうまく経 営すればすぐに大きな利益を出せる可能性を秘めていると話した。

一橋大大学院国際企業戦略研究科の楠木建教授は、平凡な部下を鍛 えて優秀な人材に育て上げる手法は「理にかなった戦略」と評価する。 「一流の人材から始めたら多額の報酬を支払う必要があり、コストがか かる」とし、永守氏は企業買収でも安く買って価値を高めるという意味 で同様のことをしており、その戦略は「一貫している」と話した。

日経ビジネス誌が昨年実施した「社長が選ぶベスト社長」では、永 守氏がソフトバンクの孫正義社長やトヨタ自動車の豊田章男社長を抑え て1位に選ばれている。選考理由としては買収先の雇用を守る、できる まで一つの仕事をやり通す執念などが挙げられていた。

ストイックな生活

永守氏は70歳となった今も昔と変わらず1年365日、1日16時間働 く仕事スタイルを続ける。酒は飲まず、たばこも吸わず、ギャンブルも 夜遊びにも縁がない。野菜と魚中心のヘルシーな食生活を心がけ、毎日 朝と晩に計1時間ほど自宅のトレーニングジムで体を鍛えて体調管理に 万全を期しているという。

日本電産の連結売上高を30年までに今の10倍の10兆円に伸ばす目標 を掲げており、85歳になるそのときまで最高経営責任者(CEO)を続 けると明らかにしている。「社員は放っておいたらどんどん怠ける」と する一方で、「社長が怠けたら社員はもっと怠ける」とも考えており、 従業員だけ働かせて自分だけ遊ぶようなことは許されないと話した。

自著では昔のエピソードとして、社員研修で「日曜出勤の楽しみ」 と題して講義したほか、花瓶を床で叩き割ったり、ものを蹴飛ばして部 下を激しく叱責することもよくあったとしている。一方、社員の夏と冬 の賞与袋に自筆の手紙を同封したり、マイナス思考から抜け出せない部 下を日曜日ごとに自宅へ呼び、午前10時から午後10時まで説得に努めた など部下の心に働きかける努力も紹介されている。

最近ではリーマンショック後の09年に一般社員を対象とした賃金カ ットを実施したが、業績が回復した約1年後には減額した全額を利子を つけて支払った。

自動車調査会社、カノラマの宮尾健アナリストは、世間の凡百のワ ンマン社長と永守氏が違うのは「他人に厳しいが自分にはもっと厳し い」ところであり、強い求心力の源になっている指摘。どんなに激務で も納得して働いている限り、従業員は自分の会社を「ブラック企業とは 感じない」とし、永守氏は「従業員に忠誠心を抱かせるところが圧倒的 に優れている」と述べた。

シャープ元社長の挫折と再挑戦

永守氏が社外取締役を務めるソフトバンクの孫社長は米グーグルか ら招いたニケシュ・アローラ氏に165億円以上の巨額の報酬を支払った ことで話題を集めたが、永守流の人材登用は幹部社員の引き抜きでも一 味違う。

永守氏が昨年、日本電産に招き入れたのは経営不振に陥っている家 電メーカー、シャープの社長を務めた片山幹雄氏だった。肩書きは副会 長兼最高技術責任者で、永守氏を含め4人いる代表取締役も兼務する。

シャープ衰退の元凶とメディアが片山氏を糾弾する中、代表取締役 にも就任の理由について永守氏は4月の決算会見で、入社以来の働きぶ りで「日本電産の成長発展に貢献できる力は十分に持ち合わせている」 と判断したという。「人間には挫折経験は絶対必要。失敗があるから成 功する」との考えのもと、世論に関わらず片山氏の奮起に期待する。

エリート人生を歩んで40代でシャープ社長となり、かつては座って いた椅子が「後ろに倒れるぐらい」威張っていたという片山氏は挫折を 経て人間性が磨かれ、経営者として一段大きく成長したとみる。永守氏 は「もう1回大きな花を咲かせてくれると思う」と期待を込めた。

しくじらない戦略

トランプ氏は「しくじらない」と述べ、選挙戦略を転換する方針(英語音声のみ) Photo: Jewel Samad/AFP/Getty Images

米大統領選の候補者指名を争うニューヨーク州の共和党予備選で大きな勝利を収めたドナルド・トランプ氏は、選挙戦略を大きく変更する方針だ。その一環として、外交に関する演説を行い、テレプロンプター(原稿表示装置)やスピーチライターを利用する。

トランプ氏と再編された陣営はまた、しばしば敵対し、トランプ氏の攻撃の的になっているワシントンの共和党指導部への働きかけも増やす。より従来型の選挙戦を展開するために多額の資金も投入する。

同氏はインタビューで、変化の必要があることを認め、「戦い方は進化し、変化している。私もそうだ」と指摘。「私はより優れた、かつ自制心のある」候補になると述べた。「しくじらない」ために自身が変化しているとも話した。

だが、トランプ氏は、大規模な集会でのスタイルや受けのいいメッセージは大きく変えない方針を示した。「私はそれでも同じ候補者だ」とし、(それらを変えれば)「何時間も待った支持者がどれだけ怒ることになるか想像できるか」と述べた。

実際、ニューヨーク州の予備選後で初となった20日のインディアナポリスでの集会では、トランプ氏は相変わらずだった。抗議のヤジを飛ばす参加者が退場させられるなか、テッド・クルーズ上院議員を「うそつきテッド」、ヒラリー・クリントン氏を「くせ者ヒラリー」と呼ぶなどした。

トランプ氏はニューヨークの予備選で約60%の票を獲得し、共和党の指名争いでトップの座を固めたが、クルーズ氏をはじめとするライバルをかわして必要な代議員1237人を獲得するには至っていない。

最近トランプ陣営に加わったベテラン政治コンサルタントのポール・マナフォート氏は、現在の目標について、「総票数と代議員で大きく引き離し、トランプ氏が候補になる必然性を強める」ことだと述べた。26日に行われる5州での予備選は、トランプ氏に有利なようだ。

トランプ氏の選挙戦やスタイルが変化し始めたのは、今月マナフォート氏が加わってからだ。同氏は代議員獲得や混乱するかもしれない党大会の対策要員として採用された。だが、非正統的な運営を見直した結果、より従来型の選挙戦に移行する役割も担うようになった。

新たな動きは、選挙対策責任者のコーリー・ルワンドウスキ氏の信念である「Let Trump be Trump(トランプ氏がトランプ氏らしくいられるようにする)」からの方向転換を示す。ルワンドウスキ氏によれば、マナフォート氏がいるおかげで、ルワンドウスキ氏は全てを仕切るのでなく「日々の運営を監督する」ことに集中できるという。

改革の一環として、トランプ氏は27日にワシントンで外交関連の演説を行う。経済と安全保障の関係もテーマだ。同氏は「われわれは諸国を守っている。そして、その防衛にふさわしい代償を受け取っていない」と述べた。

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初代Excelの開発秘話を当時の開発チームメンバーが公開

Microsoftは、iOSAndroid用にWordやExcelなどのOfficeアプリを開発・提供していますが、対抗企業のOS向けにMicrosoftがソフトを開発するのは今に始まったことではありません。1985年にMacintosh用ソフトとして作られた初代Excel「Excel 1.0」の誕生30周年を記念して、開発チームの面々が当時の様子を語っています。

‘Recalc or Die’: 30 years later, Microsoft Excel 1.0 vets recount a project that defied the odds – GeekWire

http://www.geekwire.com/2015/recalc-or-die-30-years-later-microsoft-excel-1-0-vets-recount-a-project-that-defied-the-odds/

Microsoft Excel 1.0の主任開発者だったDoug Klunder氏は、「MicrosoftはExcelとWindowsという2つのプログラムに将来を賭けていました。もしも両方とも失敗していたら、今日までMicrosoftが生き残ることはなかったでしょう。両方が成功したおかげで、Microsoftは地盤を固めることができたのです」と語っています。

Klunder氏はMicrosoft幹部がExcelの開発プラットフォームを自社のMS-DOSからAppleのMacintoshに移行する決定を下した際に開発チームを離れていますが、最終的にMicrosoftに戻ってExcel開発計画を完成に導いた人物です。しかし、Klunder氏は現在でも初代ExcelをMacintosh向けに開発したことについて疑問を抱いているとのこと。「Excel 1.0の開発は、ある側面ではうまくいきましたが、Mac用のExcel 1.0が完成してソフトを出荷したころには、市場ではLotus製品が大きなシェアを占めていました」とKlunder氏は当時の様子を語っています。

Macintosh用のExcel 1.0の登場後、表計算ソフトのLotus 1-2-3VisiCalcは後発のExcelに徐々に追い抜かれることになるのですが、その理由として、プログラム・マネージャーを務めていたJabe Blumenthal氏は「Excelの開発中は、既製の表計算ソフトから優れたアイデアを盗み取ることが重要でした」と語ります。また、Klunder氏によれば、既存の表計算ソフトの機能に加えてこれまでにない新しいアイデアを加えることでExcelは成功したとのこと。例えばExcel 1.0には「セルの値を変更した際に、全てのセルで再計算を行うのではなく、関係するセルのみを再計算する」という機能が搭載されていたのですが、当時のPCはメモリ容量が限られていたため、対抗ソフトと比べるとExcelは非常に動作が軽快だったそうです。

ソフトウェア開発者のMike Koss氏は、GeekWireの取材時にMacintosh 512Kを持ち込み、実際にExcel 1.0の動いている様子を実演。

Excel 1.0の画面は以下のようになっていて、メニューバーとシートが表示されているだけというシンプルな構成です。

また、Excel 1.0の開発はチーム全員にとって学びの場でもあったそうです、例えばExcelのシートを印刷する前に「印刷プレビュー」が表示されるのは無意味ではないか、とBlumenthal氏は考えていたのですが、印刷前に表の間違いに気付くことが可能なのだと分かり、製品版に印刷プレビュー機能を実装したとのこと。

2013年までWindowsとOfficeのエンジニアリング部門役員を務めていたJon DeVaan氏は「優れたプログラム・マネージャーは、有言実行を貫きます。チーム全員が情熱を持って取り組み、計画をよくするために自分の意見を発表したいと思っている時には、発言を公開する場を設けて、良い決断をチームにもたらすべきです」と語ります。DeVaan氏はまた、「世界中のどこを訪れても現地の人たちがみんなExcelのことを知っていて、Excelを活用して何ができるようになったのかを話してくれます。Excelという表計算ソフトが生まれたおかげです。開発チームの一員として非常に嬉しい気分ですね」とも語っています。

以下は1985年の発売当時の広告。ソフトの名前が「Excel」に決まる前は、開発チーム内では「Odyssey(オデッセイ)」という開発コード名で呼ばれており、製品名の候補として「Master Plan」や「Mr. Spreadsheet」のような名前も挙がっていたそうです。

by Microsoft Sweden

開発チームのKoss氏、Blumenthal氏、Klunder氏、DeVaan氏の4名が当時のパッケージを手に記念撮影。メンバーの多くは今も前線で働いており、Koss氏はGoogleのソフトウェア開発者として勤務するかたわら、スタートアップ企業の設立にも携わっているそうです。DeVaan氏はMicrosoftのエンジニアリング部門の役員を務め、2013年までOfficeやWindowsの開発に関わっていました。Blumenthal氏はクリーンエネルギー関連事業で今でもビル・ゲイツ氏と関わりを持っているとのこと。Excel 1.0主任開発者のKlunder氏はMicrosoftを離れた後、アメリカ自由人権協会(ACLU)の弁護士として働いているそうです。

なお、当時のExcel開発チームを集めた30周年記念パーティーが近日開催される予定とのことです。

アメリカ流経営者4人に聞く「マネジメントの知恵」

経営者の態度や言葉には“知恵”が詰まっている―。
筆者が朝食やディナー、インタビュー、テレビ電話で話を聞いたアメリカ一流の経営者が教えてくれた「経営のこぼれ話」。

フレッド・スミス FedEx Corporation (総合物流)

「顧客に傲慢になったら先行きはよくない」

フェデックス・コーポレーションは、NY株式市場の輸送株平均指数に組み込まれ、しばしば株式市場を牽引している。

創業者のフレッド・スミスは、「もし私に倫理観がなかったら、フェデックスを経営するよりも、株の売買で儲けていただろう」と話す。なぜなら、「我が社のデータから、どの企業の株が上がり、どの企業の株が下がるかがわかる」という。その理由は「顧客への態度が傲慢になった企業の先行きはよくない」だそうだ。

 

経営者の態度や言葉には“知恵”が詰まっている―。
筆者が朝食やディナー、インタビュー、テレビ電話で話を聞いたアメリカ一流の経営者が教えてくれた「経営のこぼれ話」。

ジョン・シュリフスキー Northwestern Mutual (生命保険)

「4つのことさえすれば成功できる」

ノースウェスタン・ミューチュアルCEOのジョン・シュリフスキーは、ミズーリ州のセント・ルイス大学で講演を行った。そこでのキャリアアドバイスは、私がこれまで聞いたなかで最も素晴らしかった。彼のアドバイスはシンプルである。

「いまの経済状況は厳しいかもしれないが、①情熱に従い、②自分の職業に精通し、③リーダーシップの教訓を歴史や哲学に学び、④質素な生活をすること――をすれば成功できる」という。

経営者の態度や言葉には“知恵”が詰まっている―。
筆者が朝食やディナー、インタビュー、テレビ電話で話を聞いたアメリカ一流の経営者が教えてくれた「経営のこぼれ話」。

ダグ・バーガム Arthur Ventures (ベンチャーキャピタル)

「“辺境”での成功体験は貴重である」

ダグ・バーガムは、ノースダコタ州に拠点を置くグレートプレーンズ・ソフトウェアをマイクロソフトに11 億ドルで売却後、アーサー・ベンチャーズを立ち上げた。

現在、オーストラリア・シドニーのクラウドソフトウェアメーカーのアトラシアンを有望なターゲットとした。「シドニーは大都会とはいえ、シリコンバレーに比べれば辺境。ハンディを理解できる投資家を求めていた」と話し、アメリカの“辺境”での成功体験が貴重だったという。

経営者の態度や言葉には“知恵”が詰まっている―。
筆者が朝食やディナー、インタビュー、テレビ電話で話を聞いたアメリカ一流の経営者が教えてくれた「経営のこぼれ話」。

ジム・スナーベ SAP (ソフトウェア)

「小チーム化してスピード感を出すべきだ」

SAPはトップソフトウェア企業として君臨し、競合他社が少ないため、融通性がないサービスを展開していた。
しかし、クラウドの出現により、ジム・スナーベは「抜本的な見直しを迫られた」と話す。「新製品のライフサイクルを18カ月から6カ月に短縮しなければならなかった。2万人の開発スタッフを8~14人の小チーム化し、シリコンバレーのようなスピード感を実現させたかった」。実際に、同社の製品サイクルは8カ月まで短縮された。

[Forbes]より