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GE、ウォルマートを世界一に育て上げた2人の経営者の共通点

マネジメントの基本や戦略を分かりやすく解説してくれるメルマガ『戦略経営の「よもやま話」』。今回は、アメリカを代表する企業である「GE」と「ウォルマート」を題材に、世界を舞台に戦うための「組織の作り方」を学んでいきましょう。

アメリカの2大経営者の共通点
大成した日本の経営者とアメリカの経営者では、経営の基本は同じでも、そのスタイルは少し違うようですが、とことわってご案内します。

「ジャック・ウェルチ」は、「GE(ジェネラル・エレクトリック社)」を無敗の超優良企業に育て上げた経営者です。「サム・ウォルトン」は、田舎のバラエティー・ショップから始めて、世界一の小売業「ウォルマート」を創り上げた創業者です。

ところで、2人の経営者にいえるのはとにかくタフだということです。そして、団体ゲームもふくめ大変なゲーム好きだということです。と言いながら、2人がスター選手になったかというとそうではなくて、二人とも体格的には恵まれておらず、それなりにレギュラー選手になるものの、そこ止まりでした。

しかし、とにかくチームで行うゲームが大好きで、勝つことに執念を燃やし、大いに青春時代を楽しんだようです。

ここから伺える名経営者の素養は、団体ゲームが好きなこと、勝つことに執念を燃やすことです。それも、1番を目指すことです。日本の名経営者のなかにも、結構スポーツ好きがいるようです。

企業経営と団体ゲーム
企業経営もある意味では団体ゲームです。

二人にとって企業経営は何かというと、どうもスポーツゲーム以上に自身の「生きざま」のすべてかけたゲームであったようにも思えます。

団体ゲームで勝つためには3つの条件があります。

1.チーム・メンバーとどのように調和してゲームを進めるか
2.勝つために実力をどのように育てていくか
3.どのような作戦展開を行うか

この3つのマネジメントが大切です。

少し横道にそれますが、「人のやる気」についてある学説を紹介します。その学説は「ハーズバーグの動機付け衛生理論」です。職務満足と職務不満足を引き起こす要因は違うという理論です。

職務「不満足」を引き起こす要因は、「会社の政策と管理方式」「監督」「給与」「対人関係」「作業条件」などで、これらが満たされないと人は企業を辞めます

これに対して職務「満足」を引き起こす要因は、「達成すること」「承認されること」「仕事そのもの」「責任」「昇進」などです。主に仕事そのものにかかわることがらです。

これこそが、人から活力ある貢献を引き出す要件になります。ゲームに勝つことに通じます。

「ジャック・ウェルチ」の団体チーム作り

脱線ですが、「ジャック・ウェルチ」と「報酬」についてお話しします。

ジャック・ウェルチが報酬にあまり関心がないかというとそういうことはありません。GEに入社してあまり経たないころ、報酬が不満で上司にその旨を伝え、言い分が聞き入れなければ別企業に移ろうかとしたことがあります。その時は、条件が認められGEに留まったという出来事もあります。

プロスポーツにおいては、活躍と報酬は一体化しています。それと同じようにジャック・ウェルチは、事業の成功において幹部の報酬について一人で決済しました。お祝いの手書きのメッセージとともに報酬額を明示しました。

話を戻しますが、チームのための「人材育成」と「想いの共有化」と「情報の共有化」は「強みづくり」の根幹です。

カルロス・ゴーン以上のコストカッターであるジャック・ウェルチが、社内の反対を押し切って実施した事業に、世界初の企業内ビジネススクール「クロトンビル」開設があります。

クロトンビルでは、ジャック・ウェルチが幹部は当然として現場の従業員に至るまで、企業の理念や方針を周知徹底させました。その中には「あなたの雇用を保証するのは顧客だけです。企業ができるのはそれを支援するだけです」といったメッセージもありますが。

もちろんここでは幹部会議が頻繁に行われました。トップからは辛辣で率直な攻撃が行われ、それに対して的確に応えられなければ幹部失格です。的確に率直に反論できる幹部が、ジャック・ウェルチのお気に入りのようでした。

「サム・ウォルトン」の団体チーム作り

また、脱線して「サム・ウォルトン」とお金の話をします。

世界一の大金持ちと「フォーブス」誌で紹介されたこともあります。しかし、大金持ちにしては生活はいたって質素でした。楽しみは「うずら狩り」と「テニス」で大型クルーズで遊ぶこともありません。一番の楽しみが「ウォル・マート」を通して一番になることだったのでしょう。

投資についても「超堅実」です。しかし、だれもが手を付けていなかった「POSシステム」と「物流システム」に投資し、競争上の強さの獲得に成功しました。

サム・ウォルトンはこれはと目を付けた人材に対しては徹底して引き抜きを行います。強いチーム作りのため、「人材強化」については貪欲でした。

しかし、採用した採用した優秀な人材の活用については一癖ありました。「POSシステム」「物流システム導入」の予算提示については、すんなり応じることはありませんでした。徹底的に見直しをさせて、納得できる予算になった時にゴーサインを出しました。

ウォル・マートでは、土曜日の早朝から行われる幹部と店長全員と一部の選抜店員が加わるミーティングが特徴的です。テーマは前もって決められておらず、お祭り騒ぎで終わることもあり、何が出てくるか分からないぶっつけ本番の会議です。

全員が参加して思いを同じくし、新鮮な活力をもたらす会議です。

日本では、イトーヨーカ堂やセブン‐イレブン「業革会議」として行われており、ユニクロのファーストリテイリングでも、月曜朝に「営業会議」として同じような会議が開催されています。

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ジョージ・イーストマン[コダック社創業者]ポータブルカメラで世界を変えた発明者

ジョージ・イーストマン(1854~1932)は写真の大衆化を果たしたアメリカの産業資本家だ。イーストマンが参入する以前、写真撮影は一部の専門家だけに許された狭い世界にとどまっていた。扱いのやっかいな機材を理解し使いこなせて初めて、やっとささやかな写真が撮れる、というしろものだったからだ。イーストマンはこのような写真撮影のプロセスを簡略化し、誰にでも楽しめるものにした。

 イーストマンは、革新的な技術の開発に携わる一方、自分の会社イーストマン・コダック社では進歩的な経営にもすぐれた力を発揮している。それは当時としては、はるかに時代の先を行く経営だった。彼の指導のもと、その写真王国は、アシスタントが1人だけという設立当初の規模から、1万3000人の従業員をかかえるまでに成長した。オフィスの規模でいえば、発足当初の小部屋1つから、現在はニューヨーク州ロチェスターで約22万平方メートルの敷地に展開する、95棟のコダック・パーク・ワークスにまで拡大している。

成功への階段

イーストマンは3人きょうだいの末っ子としてウォータービルで生まれた。ニューヨーク州北部ウティカの南西約30キロにある村だ。5歳のとき、家族がロチェスターに引っ越した。父親が初めて商業学校の構想を考え出し、ロチェスターにイーストマン商業学校を設立したためだ。不幸にも、父の急死で学校は頓挫、イーストマン一家は苦しい生活を余儀なくされた。

14歳で学校を卒業すると、働いて家計を支えなければならなかった。保険会社に入社してしばらくたったころ、帰宅後に経理の勉強を始める。当時の週給5ドルを上回る仕事につけるようにしたかったからだ。1874年、保険会社に勤務し始めてから5年がたったとき、この努力が実を結び、ロチェスター貯蓄銀行でジュニアクラークの地位を手に入れた。週給は15ドル以上になった。

イーストマンの人生を変える瞬間は、24歳のときにやってきた。サント・ドミンゴでの休暇の計画を立てていると、仲間の1人が、旅行の記録を写真に撮るように勧めた。イーストマンは当時最先端だった湿板技術による大きな図体の写真機材を購入していた。カメラ本体だけで21インチのコンピュータ用モニター並みの大きさがあり、これを三脚に取り付けて撮影する。この他にもガラス板、化学薬品類、ガラス製タンク、ガラス板ホルダー、現像用の道具などが必要だった。テントも持って行った。撮影直後、湿板の乳剤が乾燥しないうちに現像しなければならかったからだ。

結局、サント・ドミンゴまで撮影機材を持って行きはしなかったものの、しだいに写真が頭から離れなくなり、乾板のプロセス技術の完成に没頭するようになる。乾板とは、表面を特殊なゼラチンの乳剤で覆った薄い板のことだ。ゼラチンの乳剤は、撮影後すぐに現像する必要のある湿板とは違い、乾いた状態でも感光する性能を持っていたため、いつでも好きなときに撮影ができた。イーストマンはイギリスの雑誌で見つけたこのアイデアに着目し、改善を加え、3年間実験を繰り返したのちの1880年、乾板そのものとその乾板を大量に生産する機械の両方の特許を取得した。そして銀行を辞め、1881年の初頭、ヘンリー・A・ストロングをパートナーに迎えることになる。

自分が開発した革新的な技術の商業化の可能性に目をつけると、イーストマンはロチェスターのステート通りにあるビルを借りて、写真家向けの乾板の製造を始めた。操業当初から陣頭指揮を取り、経営手腕を発揮した。たとえば、販売業者に送った乾板に欠陥があることが判明したとき、不良の乾板をすべて回収し、良品と交換した。「不良品の対策を終えたあと、会社には1ドルも残っていなかった」とのちに語っている。「しかし、それよりもはるかに大切なものが残った。それは世間の評判だ」。1884年にイーストマン・ドライ・プレート・アンド・フィルム社が設立された。

この一件がきっかけで、イーストマンは、自分にはプロの写真家の仕事を楽にする以上のことができると気づく。本人の言葉を借りれば、「カメラを鉛筆なみの便利な道具に生まれ変わらせたい」と思った。

転機と決断

イーストマンがスライド用のロールフィルムとそのホルダーを完成させた段階で、めんどうな平板フィルムによる撮影の時代の終わりが見えてきた。写真撮影がついにアマチュアに手の届くところまでやってきた。イーストマンは、自分の開発した新しい写真フィルムを普及させようとして、あらゆる手だてを尽くした。広告のコピーにも取り組み、あの有名な宣伝文句「シャッター押すだけ、あとはコダックまかせ」を思いつく。

コダックの名称までも考えつき、1888年に商標登録、黄色を基調にしたカラーデザインも創作した。「コダック」の語源は何かという詮索が盛んだが、実際には、イーストマンの頭に突然浮かんだだけらしい。「この名前は自分で思いついた」と、ある自伝作家に語っている。「私は力強い勢いを感じさせるKという文字が好きだ。Kで始まりKで終わる膨大な組み合わせの中から、コダック(KODAK)を選んだ」

1888年にコダックのカメラが発売され、まもなくコダックの広告が至るところで目につくようになった。ロンドンのピカデリーに掲げた最初のネオンサイン広告によって、コダック・ブランドが伝説的な存在にまで成長した。1892年、同社は社名をイーストマン・コダック社に変更する。

イーストマンは当時の経営スタイルよりもはるかに先を行く、従業員を大切にする啓発的な経営姿勢を貫くことによって、コダックを育て上げている。1899年には、自分自身の財布から相当な金額を従業員全員に配分した。イーストマンの「給料配分」の方針に基づく初めての行動だった。これは同社株の配当金に連動して従業員に報奨を与えるという制度だった。1919年には同じような趣旨で、持ち株の3分の1、時価にしておよそ1000万ドルを従業員に譲渡した。同時に退職年金、生命保険、傷害補償の制度を創設した。

ジョージ・イーストマンのこの博愛主義は、企業の枠を越えて広まった。歯の治療施設、マサチューセッツ工科大学(MIT)やロチェスター市当局をはじめ数多くの団体や組織までもが、その行為の対象になった。

中でもMITは特に優遇されている。2人の卒業生がイーストマンの有力なアシスタントになったからだ。「ミスター・スミス」の名前で2000万ドルの寄付をした謎の人物が一体誰なのか、長年にわたって調査が続けられた。年に一度のMITの同窓会のディナーで「ミスター・スミスに乾杯」となったときにも、イーストマンはその乾杯に加わっていた。

晩年、イーストマンは腰椎損傷が原因の障害に苦しんだ。活動的な生活ができない精神的苦痛が高じて、1932年3月14日に拳銃自殺を図る。享年77歳だった。

時代と業績

イーストマンは、面倒で扱いにくい科学的プロセスを、マスマーケット向けの製品に変身させた。写真技術の開発におけるイーストマンの先進的で革新的な手法のおかげで、大切な一瞬を記録するという手段が、誰でも手の届く価格で大衆のもとに届けられた。

イーストマンは「箱の中の製品は信頼できる」というマーケティング手法の生みの親でもある。彼は、テクノロジーは消費者が少し想像力を働かせるだけで使いこなせるようでなければならない、と言った。マイクロソフト社の「きょうはどこに行きたいですか?」も、「インテル入ってる」も、その下敷きになっているのはイーストマンの着想だ。すなわち、消費者は技術のことなど知らなくても製品を使えばよい、という考え方だ。

イーストマンのキャッチフレーズは、他社に先駆け、歴史におけるコンシューマリズムの転換点をしっかりととらえていた。当時の消費者は、自分が購入した製品がどういう仕組みで動くのか、程度はともかく、理解していた。けれども、19世紀の終わりころから20世紀の初めにかけて、電話、電球、フィルム撮影などといった技術的に複雑な発明が爆発的な勢いで生み出され、こうした状況を一変させてしまったのである。

先進的な経営者イーストマンは、時代のはるかに先を行く経営手法を他に先駆けて実践した。不良品に対する顧客からのクレームに直面したことによって、危機管理の重要性を深く認識した。従業員の貢献には基本給を超える報奨をもって応えることが、結局は会社の利益になることも理解していた。当時、イーストマン・コダックなみの規模の企業で、将来を見据えながら、従業員の持ち株制度やさまざまな従業員給付制度を実施していたところは、ほとんど存在していなかった。

プロフィール
1854 誕生
1874 ロチェスター貯蓄銀行で働く。週給は15ドル
1878 写真に関心を持つ
1880 乾板とその製造機の特許を取得
1881 ヘンリー・A・ストロングを協力者に迎える
1884 イーストマン・ドライ・プレート・アンド・フィルム社設立
1885 開発した革命的な写真フィルムの広告宣伝を展開
1888 コダック(KODAK)の名前を商標として登録
1899 「給料配分」方針を実施
1919 持ち株の3分の11000万ドル分を従業員に配分
1932 他界

 

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フランク・ウィンフィールド・ウルワース[ウルワース創業者]低価格路線を打ち出したチェーンストアの先駆者

フランク・ウィンフィールド・ウルワース(1852~1919)はチェーンストアの先駆者だ。貧しい境遇から身を起こし、若いときに仕事でさまざまな挫折を経験したにもかかわらず、アメリカの大富豪の仲間入りを果たした。ニューヨーク州の小さな町で生まれた農家の少年は、「ファイブ・アンド・テン」の構想を打ち出し、まずはアメリカ、そしてついには全世界に展開した。

1879年には1軒だったウルワースの店舗は、1918年には1000店を数えた。このF・W・ウルワース社の成長はまさに驚異的で、小売業の業態に変化を起こすと同時に、その創業者に富と名声をもたらした。ウルワースこそ他に先駆けて低価格路線を打ち出した小売チェーンだ。ウルワース本人は、自分の成功の秘密はうまく権限を委譲したことだという。

成功への階段

ウルワースはニューヨーク州ロッドマンで生まれた。長男だった。1858年の後半、ウルワースが7歳のとき、一家はニューヨーク州グレートベンド近くの108エーカーの農場に引っ越した。人口わずか125人の町では、ウルワースが教育を受ける機会は限られていた。教室がただ1室の校舎に弟と一緒に通っている。実際にはほとんどの時間、勉強するよりも、乳牛8頭のめんどうを見て父の仕事を手伝っていた。

16歳のとき、短期間、商業学校に通ったあと、ある駅長が経営する売店で仕事をし、次にダン・マクニールの雑貨店で店員として働いた。両方の仕事とも無給だった。その見返りに、ダン・マクニールはウルワースをウィリアム・ムーアに推薦した。ムーアはニューヨーク州ウォータータウンにある大手乾物店オーグズベリー&ムーアのオーナーだった。1873年、ムーアはウルワースを雇うことに同意した。

オーグズベリー&ムーアでは、出世コースの一番下の階段から出発した。床を掃除し、ウインドーのディスプレイを考え、商品を配達し、言われればどんな仕事もこなした。

勤務時間は長く、朝7時から夜9時まで週に6日働いている。オーナーは当初、ウルワースに1年間無給で働くように要求したが交渉し、無給の期間は3ヵ月、その次の3ヵ月の給与を3ドル50セントにすることで折り合いをつけた。

それから2年後、ウルワースはブッシュノール百貨店に移って販売員となる。1876年、カナダ人のジェニー・クライトンと結婚し、4エーカーの農場を手に入れた。

運の悪いことに、厳しい環境と仕事で何の助けも受けられなかったことが原因で、ウルワースは発熱とストレス性の疾患に苦しめられた。ブッシュノールの仕事を辞め、仕事から離れて1年間自宅療養をせざるを得なかった。病から回復すると、昔の雇い主のウィリアム・ムーアが訪ねてきて、社名を新しくしたムーア&スミス社での復職を勧めてくれた。ウルワースは週給10ドルで仕事をすることに決めた。

転機と決断

1878年、ウルワースに娘が生まれ、母が亡くなった。この年は小売業の世界が激変した年でもあった。中西部の小売店に「5セントテーブル」という新しい戦術が現れたのだ。過剰に抱え込んでしまった商品を小売店がわずか5セントにまで値下げし、それをテーブルに並べたものだ。顧客はこの安値につられて来店し、ついでに正価の商品もつい買ってしまう。

ムーアはニューヨーク市に出張し、5セントで売れる商品を100ドル分仕入れてきた。それをムーア&スミスの店で販売する。ウルワースは店のカウンターを工夫し、仕入れてきた商品を1日で売り切ってしまった。

ムーアから供給される品物を仕入れ、ウルワースはニューヨーク州ウティカに自分の店「グレート・ファイブセントストア」を開いた。この店は321ドル相当の5セント商品を用意して、1879年2月のある土曜日の夕方に開店している。初めて売れた商品は「石炭シャベル」だった。

ところが、この店は失敗で、すぐに閉店に追い込まれる。これにくじけることなく、ウルワースはもう1軒の店を、同じ年の6月、ペンシルベニア州ランカスターに開店させた。今度は、5セントと10セントの商品を販売した。

このランカスターの店舗は成功だった。1880年11月、2番目の店をペンシルベニア州スクラントンにつくる。この店も成功し、ウルワースはひたすら前進を続けた。

ウルワースはその帝国の拡大を図るために家族を動員した。1895年には、店舗数が28になっており、そのなかには以前のボス、ウィリアム・ムーアの店もあった。売上高は100万ドルを突破していた。驚異的なスピードで成長を続け、1900年には店舗数が35、1908年は189、そして1911年には600になっていた。1918年1月、1000軒目の店舗がニューヨーク市の五番街に誕生した。

ウルワースが1人で始めた事業はグローバルな企業へと急速に成長していた。

1905年、事業化の負担を1人で負いきれなくなり、F・W・ウルワース社を設立し、エグゼクティブと従業員に対して5万株を発行した。

会社のオフィスは当初、スチュワートビルの中でニューヨーク市のシティホールパークを見下ろす位置にあった。そして1913年4月には、当時最も高い摩天楼、ウルワースビルに移転している。ウルワースのオフィスは24階にあった。その広さは約9メートル四方あり、そのデザインはナポレオンの有名な皇帝の執務室を基本にし、その部屋にあった時計やそのほかの品物が取り入れられていた。

1916年、F・W・ウルワース社の店舗の総来店者数は7億人を超え、売上高は8700万ドルを突破していた。人口8000人以上のアメリカの町には例外なくウルワースの店があった。

会社がウルワースビルに入居するころには、ウルワースに引退の時期が近づいてきていた。健康状態がすぐれず、ヨーロッパで静養するための休暇を取るようになる。妻のジェニーは若年性の痴呆症に苦しんでいた。ウルワース自身の健康状態は、歯の手入れをしようとしなかったことも一因となり確実に下降線をたどっていた。

1919年4月4日に重体に陥り、その4日後に息を引き取っている。

時代と業績

F・W・ウルワース社は低価格を追求する小売業のパイオニアだ。のちにウォルマートをはじめとする企業が追随する低価格路線の伝統を根づかせ、チェーンストアと大量販売を基礎に小売業の帝国を築き上げた商人の先駆けだ。

薄給あるいは無給で働き、長期間病気に苦しみ、最初の5店舗のうち3店舗は失敗したと知れば、ウルワースが事業家としての夢をあきらめたとしてもそれを非難する人は誰もいなかっただろう。

しかし彼は、こうした逆境にめげず、並外れた粘り強さによって、すべての「ファイブ・アンド・テンセント」の競争相手を寄せつけず、その時代に最も成功した小売業者となった。

低価格商品を武器にしたウルワースの事業は、1990年代まで十分通用していた。ところが1997年、ウルワース社は最後まで残ったF・W・ウルワースの「ファイブ・アンド・テンセント」店400軒をすべて閉鎖すると発表、117年間にわたってウルワースの看板だった低価格の雑貨店事業から、ついに撤退することになった。

ウルワースの秘密は何だったのか。それは権限委譲に尽きる。

「自分があらゆることに口を出さなければならないという考えに凝り固まっている限り、規模の大きな成功は不可能だ。仕事を任せられる腹心や仲間を指名して、彼らに権限と責任を与えることだ」

プロフィール
1852 誕生
1858 一家がニューヨーク州グレートベンド近くの108エーカーの農場に引っ越す
1873 オーグズベリー&ムーアの店で働く
1878 5セントのテーブルがアメリカの小売業界で評判になる
1879 ニューヨーク州ウティカにウルワースの第1号店ができる
1895 店舗数が28になり、売上高が100万ドルを突破する
1905 F・W・ウルワース社設立
1913 同社がニューヨーク市にある当時最高の高さを誇る摩天楼に移転
1918 1月、ニューヨーク市の五番街に1000番目の店舗を開店
1919 他界

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キング・キャンプ・ジレット[ジレット社創業者]安全カミソリで世界を獲った経営者

アメリカの安全カミソリを考え出した起業家キング・キャンプ・ジレットは、ありふれた日用品に着目し、それを進歩させることで富を築いた人物だ。

ジレットは自分の発明の可能性を信じ、1901年にアメリカン・セイフティ・レザー社を設立、製品化しないうちから投資家の援助をあおいでいた。生産を始めた1年目、ジレットが販売したカミソリセットは51個、刃は168枚だった。1905年には、カミソリセットが25万個、刃のパッケージが10万個になっていた。

ジレットの成功の秘密は、ブランド構築に対するその進歩的な姿勢にもあった。使い捨ての刃の包装紙に描かれたジレットの肖像のおかげで、たちまち世界的な有名人になる。その社会理論を通して社会の改造に手を染めるようになったころには、ジレットの安全カミソリは世界中の男性にとって、日々の身だしなみに欠かせない道具になっていた。

成功への階段

キング・キャンプ・ジレットはウィスコンシン州フォンドゥラックで、発明一家の子として生まれた。父親は特許の代理人で、ちょっとした発明家でもあった。母親は台所での試行錯誤の繰り返しを財産にして、料理の本を書いていた。この本は1世紀を経た今でも、書店で販売されている。

ジレットが4歳のとき、一家はシカゴに移り、そこで金物の商売を始めた。運の悪いことに、この商売はシカゴの大火事で元も子もなくなり、1871年にもう一度引っ越しをする。今度はニューヨーク市だった。

ジレットは行商の仕事を得る。与えられた製品をただ売り歩くだけでは満足できず、その製品の改良をせずにはいられなかった。1890年には申請して認められた特許の数が4件になっている。1895年になると、コルクを使った王冠を発明した人物のもとで働いていた。

この人物は、ジレットにある簡単なアドバイスをしていた。「使ったら捨てられてしまうものを発明しろ」。ジレットはこの言葉を真剣に受け止め、安全カミソリに目をつけるようになる。

その当時の男性は、昔ながらの柄と刃がまっすぐくっついたカミソリを使ってヒゲを剃っていた。ところが鉄道が発達するにつれ、この素朴な道具を見直そうとする動きが生まれていた。揺れる車両の中でこれを使うのは、文字通り危険きわまりなかったからだ。重い刃が適切な角度で短い柄に取り付けられた、いくぶん安全なカミソリも生み出されてはいたものの、まだまだ大きな欠点があった。

ジレット自身は「スター」ブランドのカミソリを使っていたが、それはそれまでの刃と同じように、革製のストラップを使って絶えず研いでいなければならなかった。そして、この刃は使っているうちにやがて消耗し、そうなれば捨てるしかなかった。

ジレットにある考えが浮かんだ。薄い鉄板を細かく切断して、そこに鋭利さが長持ちする刃をつけることはできないものだろうか。そんな製品なら、切れ味が悪くなったところで捨てても惜しくないほどの低価格に抑えられるだろう。

転機と決断

新しい安全カミソリ開発の突破口を見つけるべく、ジレットはマサチューセッツ工科大学(MIT)の冶金学者を訪ねた。彼らはジレットにそのアイデアは実現不可能だと断言した。ジレットはあきらめることなく、自分の信念とビジョンを理解してくれる人を探し続ける。そこで出会ったのが、皮肉なことに、そのMITを卒業した発明家ウィリアム・エメリー・ニカーソンだった。

ジレットは研究に6年を費やした。その執念は1901年に実を結ぶ。この年、ニカーソンと共同してアメリカン・セイフティ・レザー社の設立にこぎつけた。そして1903年、新しい安全カミソリの生産を開始した。カミソリの刃は数枚を1つのパッケージにして販売した。カミソリの柄は刃とは別の製品として販売された。

1904年、社名を変えたジレット・セイフティ・レザー社は、この新しい発明の特許権を手に入れる。ところが発売直後の販売は期待外れだった。そこでアメリカとヨーロッパの男性向け雑誌や新聞などで集中的な宣伝キャンペーンを行った。これが功を奏して事態は改善した。1906年には、累計の販売枚数が1200万枚となり、売上高は9万ドルに達した。

その次には特許紛争が待っていた。カミソリといえば人口の相当な部分が潜在的マーケットであるだけに、破廉恥な特許侵害が巷にあふれた。つまり、競争相手はジレット製品のまがいものでマーケットに参入してきた。ジレットは対抗上、訴訟を起こしたり、たいていの場合はその企業を買収したりした。この間にも絶えず自分の発明に改良を加えている。そして1904年、2枚刃を思いつく。現在でもジレットの製品に生きているアイデアだ。安全カミソリの包装紙に自分の顔を描いたおかげで、ジレットは有名人になった。

カミソリ製品のおかげでキング・キャンプ・ジレットは大金持ちになった。けれども、それに満足することはなかった。哲学的そして政治的な強い信念があったからだ。ジレットは以前から、あらゆる人たちが協力し合うことを前提にしたユートピア的社会をめざすという理想主義的なビジョンを抱いていた。何百万ドルもの現金を手にし、産業界で影響力のある存在になったジレットは、それを現実のものにするための手段を手に入れた。

ジレットは自らのビジョンの概略を説明した本を何冊か書いている。その1冊目が『ヒューマンドリフト』(The Human Drift、1894年)で、ジレットブランドのカミソリを世に出す以前に出版されている。産業革命が進行する中での公害と都市開発の拡大を押し止めるために、巨大なガラスドームに覆われた公害のない都市の計画を立案した。この新たなユートピアでは、市民が株主となった1つの企業がすべての製品をつくることになる。そして「利己主義がなくなり、戦争は野蛮な行為として過去のものとなる」と書いた。

ジレットの執念が生み出した面白い副産物はいろいろある。ヘンリー・フォードとの出会いもその1つだ。第1次世界大戦前の一時期、ジレットは自分の会社を軌道に乗せるための1つの方策として、セオドア・ルーズベルト大統領に社長になってほしいと頼み込んだ。当然ながらルーズベルトが断ると、今度は作家のシンクレア・ルイスに接触し、フォードとの会談の段取りをつけた。ともに独断的で強烈な意思の持ち主である2人の大金持ちの会談は、まさに予想通りの結末になった。冒頭からこの2人は相手の言うことに耳を貸さず、自分の言いたいことを言うだけで、そのためしだいに腹を立て、あげくの果てはお互いに怒鳴り合う始末だった。

時代と業績

ジレットの社会改造の試みは無駄に終わった。

1929年のウォールストリートの株大暴落と、会社の役員会の権謀術数や、延々と続く特許訴訟などが重なって、自分自身の資産も失ってしまう。その後、他界するまでの相当長い時間を費やして、頁岩から石油を抽出する試みを続けたものの、うまくいかなかった。結局1932年、願いがかなわないまま他界する。

しかしジレット・セイフティ・レザーは、その創立者がつくり上げたイノベーションの伝統を体現し、安全カミソリ開発の最先端の立場を維持しながら成長を続けている。同社はシェービングフォームや制汗剤を発売し、ジレットが実行してきたこと、つまり2枚刃の安全カミソリ、自由回転ヘッド、使い捨て刃、そして3枚刃の改良を続けている。

キング・キャンプ・ジレットは、世界中の人々が毎日使う製品をつくり出した人物として記憶されることになるだろう。使い捨て製品のマーケットを開拓しただけではなく、同時に名声やブランドの力もいち早く見抜いていた。自社製品のパッケージに自分の肖像を描くことによって、ジレットは有名になり、これが消費者にその品質を信頼し安心して購入してもらうための力になった。さらにこの力によって販売が飛躍的な伸びを示し、ジレット・セイフティ・レザーをマーケットリーダーの地位にまで押し上げた。

プロフィール
1855 誕生
1871ジレット一族の金物の事業が衰退
1890 特許を4件取得
1894 『ヒューマンドリフト』を執筆、出版
1895コルクを使った王冠の発明者の会社、クラウンコーク&シール社で働く
1901ジレットとニカーソンがアメリカン・セイフティ・レザー社を設立
1903 安全カミソリの新製品の生産開始
1904 社名をジレット社に改める。新発明の特許を認められる。2枚刃を発明。この着想は現在でも製品に活かされている
1905 累計販売枚数が1200万枚となる。売上高は9万ドル
1915 年間販売枚数が700万枚となる
1932 他界

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日本電産永守社長は最強の経営者か-「カス」鍛え電子部品帝国

モーター部品を製造する日本電産創業者の永 守重信社長はこれまでの自社の成長を支えてきたのは東大やハーバード 大卒のエリートではなく、会社が小さかったときに採用せざるを得なか った「カスみたいな」人材だという。

1973年、高度成長期を経て豊かさを手に入れた若者がペアルックで 街中を闊歩(かっぽ)し、地方から中央競馬に転身したハイセイコーの 快進撃に熱狂していたこの年の7月、京都市の片隅の民家にある小さな プレハブ小屋で日本電産は誕生した。

永守氏ら創業メンバー4人は世界に通用するモーターメーカーを目 指して製品開発や営業、資金調達に奔走。社員確保には特に苦労した。 一流大学の学生には見向きもされず、声が大きい順、食事を速く済ませ た順に採用を決めるユニークな試験も実施して話題を集めた。

それから42年、日本電産の部品はスマートフォンから自動車まで多 様な製品に使われるようになり、連結売上高1兆円、時価総額2兆8000 億円超、世界で12万人以上の従業員を抱える電子部品帝国に変貌を遂げ た。ブルームバーグのデータによると、永守氏自身も保有自社株の時価 総額だけで2400億円を超える国内10位の富豪となった。

永守氏は京都市の本社でのインタビューで、大きな成功をもたらし た経営の要諦について「人の意識を変える」ことだと話した。「どんな だめな人でもうまく使えば戦力になる」との信念の下、鍛え抜いて育て た部下たちが今や同社の高い成長と収益力を支えているという。

気概と執念

永守氏に関しては猛烈な仕事ぶりや独特の経営哲学が自身の著書な どを通じて知られている。大声や早飯競争による採用、新入社員にトイ レを素手で掃除させていた話などは特に有名だ。永守氏はインタビュー で、人材採用や教育方法の考え方は今でも「基本的には変わっていな い」とし、学歴よりもやる気や情熱を重視していると話した。

今年1月の報道関係者との懇談会では、創業からしばらくは「ロク な人間が来なくてカスみたいなのばかりを採用した」とし、「それをな んとか教えて、教えて、教えてみんな偉くなってきた」と述べていた。

最近でこそ一流大卒のエリートも採用できるようになったが、実際 に経営を任せると「全然できていない」ことがあると分かった。その一 方、「3流大学の2浪2留年、それを足で蹴りまくって育ててきた」部 下たちが今や子会社で高い利益率をたたき出している事実を指摘し、 「経営は頭でなくて気概と執念」との思いを新たにしているという。

「すぐやる、必ずやる、できるまでやる」を合言葉に猛烈なハード ワークを部下にも求める永守氏を古臭い根性主義者ととらえるのは間違 いだとアドバンスド・リサーチのアナリスト、スコット・フォスター氏 は指摘。「永守氏は自分がしていることを理解している。やる気を引き 出してさまざまな問題を解決していく人材再生の達人」と定義づけた。

M&Aで全勝

日本電産の急成長は積極的に手掛けてきた企業の合併・買収(M& A)抜きには語れない。主なものだけで約40件を手掛けたが、永守氏は それらが「100%成功」だったと振り返る。

2000年以降は海外企業へのM&Aを加速。スマホの普及で主力製品 だったパソコン用ハードディスク装置の需要が下火になるとみるや、自 動車用や産業用大型モーターを持つ企業を相次ぎ買収して傘下に納め、 市場の変化に合わせて事業ポートフォリオを再構築した。

永守氏は失敗の確率が特に高いと言われる海外企業のM&Aにおい ても特別な秘訣があるわけでなく、「社員の意識を変えただけだ」と述 べ、一度もリストラをしなかったという。

大量解雇による合理化で企業を再建する手法から「チェーンソー」 の異名を取ったアル・ダンラップ氏や、成績下位10%の従業員を毎年解 雇し入れ替えた米ゼネラル・エレクトリック(GE)のジャック・ウェ ルチ氏ら過去の欧米の著名経営者とはアプローチを異にしている。

「儲からない」には理由

M&Aで永守流の意識改革は多くの場合、買収した企業の従業員を 集めて問題点を指摘することから始まる。意識改革の具体例として、03 年に赤字に苦しんでいた老舗モーターメーカー、三協精機製作所(現日 本電産サンキョー)を買収後に調達部門の担当者を集め、こんなやり取 りを交わしたという。

「この部品を一体いくらで買っていますか」との質問に「100円で す」との返事があると、「それは高いと思うか安いと思うか」と続け る。「非常に安く買っていると思う」との回答に、永守氏はその場で自 社の同じ部門に電話して、日本電産は80円で調達し、まだ引き下げの必 要があると話させる。会話はスピーカーで室内に流れ、2割高以上で買 っていたと知った三協の担当者はうなだれるばかりだったという。

こうした会社の場合、トイレットペーパーから社用車のガソリンま であらゆるものを高く調達していることが多いという。三協での収益改 善は一気に進み、わずか1年で黒字に転換した。

永守氏は企業が「儲からないのは理由がある」と話す。「怠けてい る人が多い会社、工場が汚い会社、社員がよく休む会社」ほどうまく経 営すればすぐに大きな利益を出せる可能性を秘めていると話した。

一橋大大学院国際企業戦略研究科の楠木建教授は、平凡な部下を鍛 えて優秀な人材に育て上げる手法は「理にかなった戦略」と評価する。 「一流の人材から始めたら多額の報酬を支払う必要があり、コストがか かる」とし、永守氏は企業買収でも安く買って価値を高めるという意味 で同様のことをしており、その戦略は「一貫している」と話した。

日経ビジネス誌が昨年実施した「社長が選ぶベスト社長」では、永 守氏がソフトバンクの孫正義社長やトヨタ自動車の豊田章男社長を抑え て1位に選ばれている。選考理由としては買収先の雇用を守る、できる まで一つの仕事をやり通す執念などが挙げられていた。

ストイックな生活

永守氏は70歳となった今も昔と変わらず1年365日、1日16時間働 く仕事スタイルを続ける。酒は飲まず、たばこも吸わず、ギャンブルも 夜遊びにも縁がない。野菜と魚中心のヘルシーな食生活を心がけ、毎日 朝と晩に計1時間ほど自宅のトレーニングジムで体を鍛えて体調管理に 万全を期しているという。

日本電産の連結売上高を30年までに今の10倍の10兆円に伸ばす目標 を掲げており、85歳になるそのときまで最高経営責任者(CEO)を続 けると明らかにしている。「社員は放っておいたらどんどん怠ける」と する一方で、「社長が怠けたら社員はもっと怠ける」とも考えており、 従業員だけ働かせて自分だけ遊ぶようなことは許されないと話した。

自著では昔のエピソードとして、社員研修で「日曜出勤の楽しみ」 と題して講義したほか、花瓶を床で叩き割ったり、ものを蹴飛ばして部 下を激しく叱責することもよくあったとしている。一方、社員の夏と冬 の賞与袋に自筆の手紙を同封したり、マイナス思考から抜け出せない部 下を日曜日ごとに自宅へ呼び、午前10時から午後10時まで説得に努めた など部下の心に働きかける努力も紹介されている。

最近ではリーマンショック後の09年に一般社員を対象とした賃金カ ットを実施したが、業績が回復した約1年後には減額した全額を利子を つけて支払った。

自動車調査会社、カノラマの宮尾健アナリストは、世間の凡百のワ ンマン社長と永守氏が違うのは「他人に厳しいが自分にはもっと厳し い」ところであり、強い求心力の源になっている指摘。どんなに激務で も納得して働いている限り、従業員は自分の会社を「ブラック企業とは 感じない」とし、永守氏は「従業員に忠誠心を抱かせるところが圧倒的 に優れている」と述べた。

シャープ元社長の挫折と再挑戦

永守氏が社外取締役を務めるソフトバンクの孫社長は米グーグルか ら招いたニケシュ・アローラ氏に165億円以上の巨額の報酬を支払った ことで話題を集めたが、永守流の人材登用は幹部社員の引き抜きでも一 味違う。

永守氏が昨年、日本電産に招き入れたのは経営不振に陥っている家 電メーカー、シャープの社長を務めた片山幹雄氏だった。肩書きは副会 長兼最高技術責任者で、永守氏を含め4人いる代表取締役も兼務する。

シャープ衰退の元凶とメディアが片山氏を糾弾する中、代表取締役 にも就任の理由について永守氏は4月の決算会見で、入社以来の働きぶ りで「日本電産の成長発展に貢献できる力は十分に持ち合わせている」 と判断したという。「人間には挫折経験は絶対必要。失敗があるから成 功する」との考えのもと、世論に関わらず片山氏の奮起に期待する。

エリート人生を歩んで40代でシャープ社長となり、かつては座って いた椅子が「後ろに倒れるぐらい」威張っていたという片山氏は挫折を 経て人間性が磨かれ、経営者として一段大きく成長したとみる。永守氏 は「もう1回大きな花を咲かせてくれると思う」と期待を込めた。